かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆・再考 ありそうでなさそうな

 ドラえもんのスモールライトを使って、そこらへんに生えている樹をみるみる小さくして鉢に植えたとしたら、果たしてそれは完成された盆栽になるでしょうか。

 確かに、盆栽は自然を模倣して作る芸術作品です。だったら自然の樹をそのまま模倣すれば、完璧なんじゃないか? と思ってしまうのは無理もないことでしょう。しかし、多分それではケッコー異様な感じの一鉢が出来上がるのではないか、と私は思うのです。

 以前「シゼンな感じがいいのだ!」と、生えたなりの、全くと言って良いほど自然状態の樹を、盆景(庭園)風に鉢植えした作品を飾った人がありました。それはアメリカンドックを地面にぶっさした風情で、とてもではないけれどお世辞にも「盆栽」と呼べる代物ではありませんでした。

 「シゼンな感じ」とは言っても、生えたなりの状態では、まず以て幹と枝振りのバランスを取ることが難しいのです。その上、必要な剪定を怠ると、葉っぱがついている枝が外側の輪郭線ばかりに集中するため、懐がガラガラで実にさみしい感じの樹になるのは必定なのです。

 この逆説を通して知れるのは、実に盆栽というものが徹底的に人為を尽くして作られるということではないでしょうか。

 つまるところ、自然の模倣とは自然そのものを借りてくることではなくて、あくまで人が人の手で「自然らしきもの」をほとんど一から表現する営みを指すものに外ならないのです。盆栽の技術とは、まさに誰かが見て「ありそうだ」と直感させる樹を作る技術であり、もちろんそんな樹は自然界に存在しないのです。

 ありそうで、なさそうな樹には、たいへんな情報量が詰め込まれています。なにせそれは、ホントなら存在しないはずの枝と姿形の詰め合わせなのですから。盆栽の魔力は、そんな一鉢を見つめる脳みそが、情報過多でちょっと眩いてしまうところに潜んでいるのです。
 

ブカツ哀詩 「この辺」の事情

 小さいうちからウチの教室に通い、せっせと研鑽を積んで、毎日決まった分量の宿題をコンスタントにこなしていた子が、中学校へ入学したのを境に明らかな変調を来してくる。

 今まで毎日欠かすことのなかった宿題の量が目減りするくらいならまだしも、ひどい時には教室へ来た時くらいしか勉強するということがなくなる。これまで築き上げてきた学習習慣が、みるも無惨に崩れてゆく有様を見せられるのは、非常に遣りきれないものがある。

 では、どうして今まで通りでいられなくなるのか。寧ろ小学校の頃の方が、君はたいへん熱心に勉強に打ち込んでいたではないか、と尋ねると、返ってくる応えは決まっている。

 「ブカツが忙しくって・・・」へとへとで帰って来た後は、教科の宿題や例の「自主勉ノート」を書くので精一杯、あとはベットにバタンキューというのが、ブカツに打ち込む彼らの生活スタイルなのだ。

 だから学校の宿題よりほかに、プラスαの学習が付け入るスキなどあるはずもなく、一週間を通してブカツに追われ、土日も練習試合に駆り出される。これがわが宮城県の片田舎「この辺」の当たり前である。

 さらに「この辺」のブカツは、スポーツ少年団と不可分に癒着しているため、ブカツの時間外でさらに二時間、三時間と彼らは練習に練習を重ねる。そんなものはトンだオーバーワーク以外の何ものでもなく、いたずらに身体を苛め、いたずらに基礎学力を定着させるための時間を削ぐものに外ならない。

 しかし、それが最早当たり前過ぎているから、親たちも文句の一つも言わずに「仕方がないこと」だと割り切っている。自分の子供がブカツに忙殺されて、まとまった勉強時間を取れないのも「仕方がないこと」で、結局ウチの教室に通えなくなるのも「仕方がないこと」なのだ。

 基礎学力もない、読書もしない、将来のことを考えもしない近視眼的なブカツ偏愛主義に、私はとことん厭気がさしている。だから私は、遅ればせながら声をあげることにした次第なのである。この地域の未来を担う彼らのために、そして一日三千円の部活手当で駆り出される、かつての私の同業者たちのために。

些事放談(3) お倫ぴっく

 心躍らぬオリンピックが二ッばかし、コロナのごたごたに紛れて過ぎ去ったような気がしたけれど、平和の祭典はザキザキした心持ちより外の何かをもたらしたのだろうか。
今さらではあるけれど、私はいまなお「なんだかなぁ」の気持ちで居るのである。

 この辺の現状は変わらないどころか、寧ろ悪化している。「この辺」と申すのは、私が在住する宮城県の片田舎、仙台から一時間の辺りにも、このところ頻りとコロナの爆弾が落ちるようになってきた。
最初は東京や仙台の状況を「こことは違う都会の話」と思って暮らしていたくらいだったのが、三月、四月に入ると状況が一変した。

 昨日まで教室へ元気に通っていた子が、突如濃厚接触判定を食らったり、学校が急に閉まって私と家内の教室も閉めざるを得なくなったり、こうなってはいついっか自分もコロナにとっ捕まるかわからない。
首都圏はこのゴールデンウィークでたいへん賑わったようであるが、別にその後で再び感染がぶり返すのもある程度承知の上でやっているのだろうから、実に逞しいものがある。

 しかしながら、とてもではないけれど私は自分からリスクを背負いに行くマネは出来ない。
こんな私は所謂「ウィズ・コロナ」の時流から置いてきぼりにされている、と揶揄されて当然なのだろうが、教育に携わる以上、子供をわざわざ危険に晒すマネだけはしたくない。
そんな倫理観は、やはり古くさいのかも知れないが、「私は」そんな感じでやっている。

 どうやらコロナの時代は、われわれ一人ひとりの倫理観が試される時代であるらしい。スーパーへ出れば、マスクをしない人とも遭遇するし、教室へ出れば、家族が濃厚接触者だけれど子供を送り出す家庭もある。

 倫理観に絶対なんてものはないのだから、どれが正しくて、どれが正しくないとも言えない。
ただ、ひとつだけ言えるのは、そんな倫理と倫理を擦り合わせていくことによってしか、最適解は生まれないということだ。

 オリンピック。どうやら私の心をザキザキさせたのは、オリンピックが浮き彫りにした政治家の倫理観と、私のそれとの如何ともしがたい乖離だったのだろう。

 世はまさに「お倫ぴっく」。一億人の一億個の倫理観がざわめいて、コロナの風に戦いでいる。

軍隊学校之記(8) 寝る子は育つ

 過去のある一瞬に数秒間だけ戻れるようなミラクルがあったら、みなさんはかつての自分に何と語りかけるでしょうか?

 それが大学時代だったら、私は酔っ払って教育実習の大事な日誌を紛失する前の私に「自転車で帰るのは止せ!」と言うでしょう。では、それが高校時代だったら、別にどのタイミングでも構わないから、ムダに眠気と闘う私の肩をトントンと叩いて「ちゃんと寝ろ。早く寝ろ。」と一喝して事足りるでしょう。

 とにかく宵っ張りをしました。一時、二時は当たり前、なんでそんなに夜中まで机にしがみついている必要があったのか、それで如何ほどの収穫があったものか分かりませんが、習慣というものはおそろしいものです。

 あれから十年以上の歳月を経て、すっかり冷えた頭で考えると、全く以てナンセンス。第一、そうして慢性的な寝不足を抱えて受ける授業など、効率が悪いにもほどがあります。さすがの教官たちも白目を剥いて睡魔と闘う私には、やさしく注意してくれましたが、勉強の主戦場を授業ではなくて深夜の机に持っていった大愚策は、今なお悔やみきれぬものとしてあります。

 毎日ほぼ毎時間の小テストとその追試のプレッシャーから逃れるべく、とにかく必死であったことは確かです。しかし授業中にある程度の整理が付くように頭をちゃんと使って、二手先三手先の対策をその場で打てておれば、そんなことにもならなかったはずなのです。そのためには「ちゃんと寝る」ことこそが、科学的なお墨付きすらある最大の得策なのです。

 この際だから白状してしまえば、あれほど睡眠時間を削ったのには今ひとつの理由がありました。それはライバルに先を越される不安であり、もし先に寝てしまったらその間に水をあけられてしまうのではないか、という強迫に囚われ続けていたことに因るものなのでした。

 まさに本末転倒、眠気を我慢してロクな勉強も出来ておらぬクセに、そんな気休めのために夜を更かして翌日はまた必死に眠気と闘う。せっかく発達しているところの脳みそには随分と申し訳ないことをしたと思っています。

 そして今もまた、あの軍隊学校ばかりでなくて、日本全国どこかの進学校にも、あの頃の私と同じような負のスパイラルに陥っている生徒は必ずいるはずです。ぜひとも彼らには、頭の正しい使い方に気づいてもらって、「何にも気兼ねすることなく勉強ができる」という青春の貴重な時間を有意義に使ってほしいものです。
 
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作文の時間(6) アウトプット賛歌 後編

 私は国語教育における「作文」の異質さを、その徹底したアウトプットの営みに見ています。そして表現するというところで見るならば「作文」は紛れもなく「図工・美術」と同じ領域を共有している、というのはちょっと言い過ぎでしょうか。

 でも、白い原稿用紙を前にした彼らの戸惑いは、白い画用紙を渡された彼らのそれに似ています。自分の言葉を好きなように使って、好きなように何かを表現してよい、と言われた時「よっしゃ、やってやるぞ!」と腕まくりする子はごく一部で、「いやぁ、そう言われましても」と尻込みする子がほとんどであることは重々承知しています。

 大事なのは、ふだんから言葉を使ったアウトプットに慣れておくことなのです。訥々と単語を並べるようにしてしか話せない子や、たくさん喋っているけれど何を言いたいのか分からない子は、まず以て「作文」がまだまだ下手っぴです。そんな人々に必要なものこそが読書であり、誰かが書いた良質な文章表現に親しむことなのだと私は思います。

 これまで作文教室を開いてきた経験からしても、やはりすらすら文章を書く子供たちは、きまって読書の習慣がついています。彼らは自分が読んできた文章の言い回しを、良い意味でパクりながら、言葉を使って何か表現するということを、誰に教わるともなく学んできたのです。

 「学ぶ」の語源は「まねぶ」(真似る)であると言われています。誰もがはじめから文章を易々と書ける訳ではありません。誰かの書いたものをそうして「まねぶ」ことで表現のレパートリーは増えていきます。ですから「作文の技術は一日にして成らず」なのです。

 以上述べてきた通り、読解のインプットが主流の国語教育において、アウトプットの領域を受け持つ「作文」はたいへん貴重な存在なのです。言葉という記号を正しく読み取る技術と、言葉を使って誰かに何かを伝える技術。その両輪なくして、国語という教科は成り立たないと言って良いでしょう。

作文の時間(5) アウトプット賛歌 前編

 国語という教科において、「作文」は限りなく異質なものだと私は思うのです。

 普段の国語の授業といえば、テキストを読んで登場人物の心境の変化を追ったり、作者の論理展開を整理したりという作業を通して、文章を正確に読解する術を学びます。この点で読解とは、書かれた情報を正しくインプットするための技術である、と言い換えることができるでしょう。

 さて、では改めて「作文」とは何でしょう。真っ白い原稿用紙を渡されて「さあ、自由に書きましょう!」と言われたときの、大海原に放り出された感は半端なものではありません。これまで(眠気と格闘しながら)必死に教科書の字面を追っかけていたのに、突然一文字もない大平原に連れてこられた感じ、とでも形容すべきでしょうか。

 読解の授業であれば、テキストに使われている言葉を使って、その範囲内でものを考えればOKで、寧ろ自分で好き勝手に選んだ言葉を使って答案を書けばバツを食らってしまうのが関の山でしょう。そもそも読解においては、作者がどうしてその言葉を使い、そのような言い回しで表現を行ったのか、ということを最終的に追求していく必要があるため、われわれはつねに、既に表現(アウトプット)されたものを相手にしなければなりません。

 そこへきて作文はどこまで行っても「自由」で、それゆえにまた茫洋としています。だからどうやって自分の言葉の海に漕ぎ出して良いものか途方に暮れてしまう人々が続出するのも無理もない話です。なにせこれまでは作者の言っていることを、読み取れば良かったのに、作文となると外ならぬ自分が作者になってしまうのですから。

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塾生心得 英語がワカンナイ 前編

 私のところへ来はじめたばかりの門下生から「先生、英語で点が取れません」という相談を受けることがあります。私はテストの点を上げるための勉強というのが好かないので、何が分からなかったのかと尋ねます。

 すると彼らはきまって「うーん」と考え込んでから要領を得ない答えをするばかりで、およそ何が問題だったのか分からなくて困っているらしい様子が窺えます。仕方がないので、教科書を見せてもらって単語や、文法について一個一個しらみつぶしに質問してみると、案の定あやふやな理解のものがほとんどで、とてもではないが基礎が全くなってない、よくこれでテストに臨んだものだと驚かされます。

 では、なぜこのような事態に陥ってしまうのでしょうか。ろくに勉強をしなかった、というのは論外ですが、それなりに勉強して教科書の本文やワークも一応解いたのに「なんだかなぁ」という結果に終わるのには、いくつかの要因が考えられます。

 まず第一に指摘すべきは、単語力の不足という問題でしょう。授業中に先生が和訳するのを聞き流して、何となく知ったつもりになっている単語でも、それが別の文脈で登場すると違った意味になっている、なんてことは言葉なのですから当たり前です。通り一遍に一単語につき一つの意味を覚えたところで、そんなものは付け焼き刃に過ぎません。

 ですから初見の単語は必ず辞書を引いて、寧ろ語源ごとそのニュアンスを把握してやろうという気持ちで調べてみなければいけません。そうすることで、派生的な単語を芋づる式に覚えることも可能ですし、知らない単語が出てきても文脈の中である程度の意味を推測出来るようになります。「こんなやり方、古典的だ!」と言われようが、お勉強に最新鋭もヘチマもないのです。語彙の力もなくてどうして言葉が操れるでしょう?

 そもそも単語を覚えることは、英語に限らず様々な言語を学ぶ際の基礎中の基礎であり、語彙をおろそかにして言語を学ぶことなど、いわばその言語に対する冒涜であり、足し算を知らずに積分を習うような暴挙に等しいのです。「まずは言葉を獲得せよ。」そう言われた新弟子の顔には「そう言われましても」と書いてあるけれど、ある程度の単語力が付くまでは何をやったところで付け焼刃にしかならないのだから仕方がないのです。(後編へ続く)