かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(10) 開く/閉じる

 エレベーターみたいなタイトルですが、今回は「心のドア」にまつわる話をしてみようと思います。

 大学時代とは、それぞれの主義や主張の異なる実に様々な人間と関わる時間です。そんな人々との関係から、改めて自分の現在地を相対化してみるも良し、つるんで何か企てるも良し、或いは栄光ある孤立を保つも良し。

 いずれもそれぞれに捨てがたい魅力を持っていますし、私は「どれを選ぶべきだ」なんて野暮なことは言いません。これはひとつ自分で実践して、イイ目や痛い目に遭ってみないことには分からないものであります。

 しかし、いかなる場合であれ「心のドア」の開き具合くらいは、思い出したときにチェックしてみるべきでしょう。なぜならそれは「開きすぎ」ても「閉じすぎ」ても、具合の悪いものだからです。

 気のおけない友人たちとの談義に花を咲かせ、その人物の人柄であるとか心の機微にふれて共感するとき、私たちの心は自然と「開く」ものです。他者を理解し受容するということは、自分を「開く」ことなしには成立しません。

 自分のチャンネルを相手のチャンネルに合わせ、そこに初めて交流が生まれる瞬間は、われわれに何にも代えがたい感動と喜びをもたらすものです。ですから、こうした出会いに具えて、いつでも自分の回線をオープンにしておくことも悪いことではないでしょう。

 また、それとは対照的に、大学生ならではの有り余る時間をたっぷり味わうため、休日などは自分の砦に籠城し、趣味や読書に思う存分打ち込む・・・まさに私のようなタイプの人間もあります。そうやって一時的にせよ外部に対して「閉じる」ことも、学業や自身の思考を整理するにあたって効果的な手段と言えます。(別に自己弁護しているわけでは・・・苦笑)

 寧ろ読書というものは「精神の個室」なんて呼び名があるように、とうてい心がオープンな状態で出来るものではありません。それ故にかつての私はよく、恋ヶ窪の学生アパートの一室を「精神と時の部屋」化しておった次第で。

 でも、やっぱり何事もやり過ぎは良くありません。(次回へ続く。)

些事放談「議論出来ないオトナ達」

 教育に悪いものを子供に見せるな!

 というのは、最早古典的な台詞でありましょうが、昨今はメディアが増殖に増殖を重ねた結果、最早オトナのわれわれが子供の観ているものを全て把握することも至難の業となってきました。

 テレビが一家に一台で、チャンネルが数えるほどしかなかった頃と比べれば、タブレット一枚で四六時中好きな動画を好きな時に閲覧出来る今という時代は、彼らが観ている動画の善し悪しを判断しようとも、とうていそれが追いつかなくなってきた時代と言えましょう。

 ですからここで試されるのは、子供を含めたわれわれ各人の倫理感であり、諸子百家がネット上で発信する、まさに玉石混淆の情報を正しく疑うリテラシー能力と、それにともなう論理的思考力なのです。

 しかしながら、そんな最中にあって一つだけ、私が自信を持って「教育に悪い!」と言えるものがあります。それはずばり「国会中継」です。

 政治に対する若年者の関心を高める、というのはもちろん必要なことではありますが、こんなロクでもない国会答弁を未来ある彼らに見せてはなりません。

 国語の授業において彼らは、質問に対して適確に答えることを学びます。「なぜですか?」と尋ねられれば「○○だからです。」と応答し、学齢が進めばディベートを通して、言葉によって高度な議論をする術を学習します。

 そこへきて「国会中継」の、あのザマは何でしょう? 政治のトップが尋ねられたことに答えられない。そしてあろうことか、訊いていないことを二回も三回も馬鹿みたいに繰り返して得々としています。

 議論が尽くされなければならない局面にあっても、閣議決定で既に決まったことは議論しなくてもよい、というスタンスが丸見えであり、これほど国民を馬鹿にしていることはありません。

 それは「ママゴト」みたいな形だけのギロンであって、つまるところ政権側にとってそんなものは無くてもよいのです。

 まさに問答無用。これが議会及び議論のあるべき姿である、と誰が胸を張って子供達に言えましょうか。それはちょっとしたディストピアであり、言葉が悉く賦活することを止めた世界です。

 政治家がいつから失語症に陥ったのか分かりませんが、官僚の作文を読み間違えながら音読する政治家が、いったいどんな未来の展望を見せてくれると言うのでしょうか。

 そんな政治家がテレビに出てきたら、それこそ「教育に悪い」のです。いま盛んに学んでいる私の門下生を含め、これからを生きる子供たちは、ただでさへ今までオトナ達が溜めてきたツケを多く払わされる損な役回りをせねばならぬのに、政治がコレではあまりにも哀れであります。

 議論出来ないオトナ達よ、諸君には最早何も望まない。私は日々畑を耕し続けるように、子供達の内に「生きた言葉」を育てるばかりです。

盆人漫録(17) ビックリドッキリ盆栽

 今週のビックリドッキリ盆栽はこちらです! とばかりに持ち込まれましたる「知らない樹」。

 やっぱり蔵者は、わが同好会でも随一の「集め屋」の異名を取る沼田さん。

 「こいづ、どっから持ってきたの?」と尋ねられても、沼田さんはニコニコしながら首を傾げるばかりで、家から持ってきたことだけは確かなのだけれど、肝心の出所は不明な午前九時五〇分。

 沼田さんはいつも九時半には会場にやってきて、公民館の研修室の机をロの字型に設置して、しかる後に持参した樹をえっちらおっちら、公民館の台車に載っけて運び込む。そのあたりにちらほら会員が参集して、「やぁ、早いですな」「いやいや、おれ、早く来たもんだがらっしゃぁ。」と、いつものやりとりがはじまります。

 沼田さんの工具はいつも独特。大きな工具箱はかつて電気工をしていた時代からのもので、針金をいじる際のニッパーや、ラジペンの柄は年期の入った絶縁仕様。

 これなら針金を外している最中に、ピカチュウの十万ボルトを食らっても平気だろうな、と私が眺めていると、それに気づいて「おれっしゃぁ、電気屋だったからっしゃぁ。」とにっこり、いつもの工具見せ合いっこがはじまります。

 何につけても、愛好家という人種は互いの趣味道具に感じ入りやすく出来ているものとみえて、何処で買い求めたかとか、こんな時にも使えるかだとか、ナンボで買ったの? とか、本題に入る前にそこで盛り上がってしまうものであります。

 ひととおり、いつものルーティーンを終えて、さて本題の「知らない樹」を遍照台上にぐるぐる廻して拝見しますと、さてもやは、誰もがそのムズカシさにハートを射貫かれる新木も荒木。こいつをどこで? と誰かがもう一度尋ねても、御大は「さぁ、えらぐ前だったがら、覚えてないのねぇ」と百点のえびす顔。

 時計が十時を告げて、司会の吉原さんが開会の挨拶と次の展示会について、文化協会との打ち合わせの詳細を報告しているところへ、講師として隣町からお招きしている平先生が到着する。

 先生は何も言わないけれど、ロの字型の机の真ん中に据えられた「知らない樹」を一瞥して、もう一回ちょっとだけチラ見して、それからさりげなくガン見してから、駐車場の松の木をブラインド越しに渋い顔をして眺めている。

 毎回毎回、沼田さん蔵の「知らない樹」がいったいどこから湧いてくるのか誰にも分からないけれど、それに毎回毎回一番ビックリドッキリさせられていたのが「先生、これをひとつ・・・」とお願いされる平先生であったことは、どうやら確かなようでありました。

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教育雑記帳(26) エンジンが付いた子 後編

 「学ぶ」ことが出来る人間とは、エンジンの付いた車のようなものです。

自分が欲する知識を、必要に応じて得ようと算段することが出来れば、その人はどこまでも「学び」を続けることができるでしょうし、その過程においてまた、新たな課題を見つけて次なる「学び」へと進んでいくことでありましょう。

 「教えられる」一方の人間には、それが出来ないのです。誰かに押してもらうより外に前に進む手段がない彼らは、およそ知識を「与えられるもの」だと錯覚してしまっているのです。そんな風にして与えられた知識など、能動的に取り入れる知識に比べれば「定着の質」というものが違ってきます。

 忘れては教えられ、また忘れては・・・を繰り返し、進学塾に高額な月謝を納めて当座の目的を達成したら、あとはキレイさっぱり忘れてしまう。こんなようでは一生自分から「学ぶ」人間にはなれっこないでしょう。

 教育の現場に必要なのは、「学ぶ」ことを教え込むことなのです。魚の買い方ではなくて、魚の捕り方を教えることこそが、教育の本懐だと私は思います。

 「成績が上がればいい」「たくさん覚えてくれればいい」なんて実に見当違いな目的で「教えて」ばかりいても、生徒は一向に自ら進んで「学ぶ」ようにはなりません。

 それよりも寧ろ「なぜ勉強するのだろうか?」「勉強の質を上げるにはどうすればよいだろうか?」とか、「そもそも何をもって覚えたと言えるのだろう?」という根本を糺す問いかけこそが、生徒の「学び」を触発する上で重要なキーとなってくるのではないでしょうか。

 義務教育や高等教育は、受験や就職のためにあるものではありません。それは生涯にわたる「学び」を続けていくための下地を作るためにあるものです。

そこで「学び方」を教わり、あとは自分で好きな方向へハンドルをきって進んでいくための優秀なエンジンを整備するために、学校というものは存在しているのです。それが出来ないのならば、最早この国の教育に未来はありません。
 
 教育に金をかけられる国になること、そして「学べる」人間を育てられる国になること。それは目先の資金運用に一喜一憂するよりかは、ずっとよい投資ではありませんか。

まぁ、死ぬまで近視眼的な学べない人間には、きっとその価値なんてわからないことでしょうが。
 
 
 
 

教育雑記帳(25) エンジンが付いた子 前編

 教育の根幹は「教える」ことでしょうか?

 それは違います。

 「教える」ということは、「学ぶ」ことに比べるとはるかに非効率的な手段と言わざるを得ません。ですから「子供達にたくさんのことを教えたい!」と希望に燃える教員ほど、目的と手段を取り違えたヤバめな存在なのだと私は常々思っているのです。

 「教える」というのは一方通行的な手段に過ぎません。「これはこうだからこう!」と微に入り細にわたって教えても、それが額面通り受け取られるかどうかも心許ないし、それがきちんと使える知識として個々の内に定着するかどうかすら分からないのです。寧ろ、時に「教える」ことはクスリになることもあれば毒にだってなるのです。

 考えてもみてください。真っ白な状態の子供に、恣意的に選択されたひとつのルールを「教える」ことは、その子供をひとつの鋳型に嵌めて矯正することに外なりません。

 自由奔放に伸長している若木を盆栽に仕立てる折り、針金をグルグル巻いてセオリーに外れた枝を容赦なく落としていくように、それは型に嵌められる本人に、少なからざるストレスと負担をもたらします。

 それに対して「学ぶ」こととは、自ら進んで知識を取り入れることを意味しています。「知りたい」「ゆかしい」という気持ちを杖として自発的に知識を取り入れることが「学ぶ」ということであり、習熟の面から言ってもただ一方的に教えられたのとは雲泥の差が出るものです。

 大きな目標を持っていたり、何かしらの理由で学習に対するモチベーションが高い人と、惰性で授業に出ているような人間とでは、比べるまでもなく前者に軍配があがることでしょう。

 前のめりになって「学ぼう」とする人間と、ぐだぐだ「教えられる」一方の人間とで学力の二極化が進んでいるのが、現在の学校教育の現場に外なりません。中間層がいない、中間層の進学先がないというのも、もしかするとそんな区分けの為せるところなのやも知れません。

軍隊学校之記(15) 競争はつらいよ

 特大の模造紙を貼り合わせた二メートルに及ぶ順位表がデカデカと掲示されると、人々が暗い廊下にひしめき合って自分の模試の順位をさがします。

 私はこれが実にキライでありましたので、出来ることならば見たくもない。校内順位なぞ模試の個人成績表に記載されているわけですから、自分のポジションは分かりきっています。少なくとも学業奨学生枠の云番以内に自分の順位があれば、それでいったん心を落ち着けられるのです。

 そこへきて、学年の生徒ほとんど全員の名が連ねられた順位表なんてものは「誰それよりも自分が上か下か」というのを確かめるためのものに過ぎず、極めてストレスフルな代物であったことは確かです。

 これはやはり軍隊学校がわれわれの「競争心」を煽らんがための手段であったのだと思います。私はそれがイヤで堪らないから、わざわざその廊下を迂回したり、それを見てきた同級がする話をついうっかり聞かないように細心の注意を払っていました。

 しかし、ふとした拍子に「○○が何位を取ったんだってよ!」なんて話を拾ってしまうと、そこから二三日はどうにも気分が悪い。元来負けず嫌いな私は、そんな話を聞くだに「競争」モードにいらない油を注がれて、どうしても平時の勉強ペースが狂ってしまうのでした。

 それが起爆剤にならなかった、と言えばウソになりましょうが、やはり「競争」というものは心底イヤなものです。人間、競争ばかりしていたら、どこまでいっても心は休まらないわけで、「競争に勝った者だけが成功する」世の中なんぞ、ちょっとしたジゴクだと私は思うのです。

 「某に先を越される」と思った時の焦燥は、非常なストレスであり、そこに「蹴落とされてなるものか」という意思を芽生えさせます。ですがこれは裏を返せば、「だったら私が某を蹴落としてのし上がるんだ!」という排除の論理が見え見えなわけで。

 そんなことにジリジリと精神のライフポイントを削られるくらいなら、心静かに抽象的な順位の数字を眺めて、新たな作戦を練るにしくはありません。他者を蹴落とすのではなくて、本当に闘うべきは自分の未熟な論理的思考に外ならないのですから。

 「競争社会」など、暴走して腐敗した資本主義がもたらした産物なのかも知れません。磨き上げた自身の能力と、特質。それに見合った仕事をして、各々が生活の質と社会の質とを向上させるのに一役買えれば、それで御の字なのじゃないか、と私は思うのです。

 あの巨大模造紙を前にしたら、手塚版「ブッタ」はきっとこんなことを言うでしょう。

 「燃えている・・・」と。

国語の時間「小説の読み方」

 生徒のみなさんの中には、一定数「感情移入」という方法で小説の問題を解いている人もいるようです。

 作中人物の気持ちになって考える。なるほど、物語に没入して読み進めるという方策は、確かに理解を早めるものやも知れません。ですが、もしもその作中人物がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に出てくる「スメルジャコフ」みたいな得体の知れない奴であっても「感情移入」は可能なのでしょうか。

 それがムリだとなると、つまるところ点数の上下は「感情移入」が出来たか出来なかったかということになってしまうわけで、結果的にこれは賭博者的で不確実な方法ということになってしまいます。

 作中人物になりきるなんて、どだい無理な話なのです。「わかる、わかる!」と非常な理解と親近感を示したところで、相手は飽くまで虚構の人物。寧ろそうして理解を示す自分が寧ろ、自らをそこに投影して分かった気になっている可能性だってあるのです。(これは結構深いお話。)

 ですから「感情移入」的な読み方には、常に誤読の危うさがつきまとうわけです。自分だったらこのように感じて、このように考えるはずだ、という先入観が払拭されないままに読み進め、果ては問題制作者の巧みな選択肢のワナに陥るのが関の山でしょう。

 大事なのは根拠を集めることです。文中から感情の機微や、転換の契機となる瞬間を押さえて、「ここがこうだから、ここはこう考える」という筋の通った読みをすることが必要なのです。

 え? それでは何だか味気ない?

 果たしてそうでしょうか、私はそうは思いません。なぜなら、良いテクスト(作品)とは、そうした論理的読解に耐えるものであり、それに対してきちんとアンサーを投げ返しつつも、なお読者を魅了する豊かさを湛えるものなのです。

 そもそも、根拠のない「感情移入」的な読みが許されるのは「道徳」の時間に限った話なのです。「道徳」と「国語」の違いはまさに、「私だったら」が許されるか、許されないかにあるのです。

 ここをはき違えて「国語」を教える教員は、残念ながらポンコツも甚だしいわけで(笑)。

 ですから生徒のみなさんには、国語の教科書、国語の問題、ひいては文学作品に向かう時は、よろしくロジックを杖としてこれを読み進めていってほしいのです。

 まずは先入観を払拭し、真っ向からテクストを「読み」、その言語世界を広く見渡して後にはじめて、自分の「読み」と感想を述べるのが筋なのであります。

 さもなくば、文学作品と呼ばれるものは人々の共感のための小道具に成り下がってしまうでしょうし、精緻に調整された言葉の機微が「感情移入」という異物でもって無惨にも蹂躙せられてしまうことでしょう。

 小説の読み方。随分と大上段に振りかぶったタイトルにしてしまいましたが、別にこれは「評論の読み方」でも同じということがお分かりいただけることでしょう。

 言葉とはロジックです。しかし時に、言葉はロジックの力を借りて、ロジックでは説明の付かないことを表現することだって出来るのです。

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