かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(12) チャイルドシート綺譚Ⅱ

 なるほど、ありとあらゆる機能をとりあえず満載させて、某のマークが付いていて、金額的にもそれなりのものを購入すれば、きっとこの一家のように素敵な幸せが訪れるであろう、というメッセージがビンビン伝わってくる。

 だが、それってどうなのだろうか。ここで安易に不明な点しかないけれど各種機能マシマシの品を考えなしに購入するというのは、何か大事なことを失念しているような気がしてならない。もしかするとこの家族も、この数秒後に赤ちゃんが粗相をしてぐずり出して、慌てて駆け寄った両親が転倒して、これまた高級そうな家具の角に頭をぶつけて一種の地獄絵図と化すことだってなきにしもあらずである。金額イコール幸福という等式は、先ず以て疑ってかかるにしくはない。

 第一、私だってかつてはチャイルドシートに搭乗していたわけであるが、その頃のチャイルドシートには何か足りていないものがあったということなのだろうか。私は悪い物に乗っていた、ということなのだろうか。もしそうでなかったとしたら、何故かくも大量に「新しい製品」が出回ってくるのだろうか。

 いや、それでも私は今現在のところ少なからずハッピーである。毎晩のように晩酌をして太平楽を並べる心のゆとりだってあるわけだから、チャイルドシートにがちゃがちゃと機能が付いていなくたって、人間はそれなりに幸せに育っていくことが出来るということの証明がここになされているはずではないか。

 では私は如何なるチャイルドシートを購入すべきであるのか。いや、如何なる基準を以てチャイルドシートを選ぶべきであるのか。

 世の中には殊勝な人があって、わざわざ「チャイルドシートを選ぶ際のオススメポイント」などを仔細に紹介していたりすることがある。なるほどそれは、世の中の益となるところが多い気がするわけであるが、直ぐさまそういったものへ走ることを好しとしない性向が私にはあるらしい。

 折角要点をまとめて下さっている方々には申し訳ないかぎりであるが、私は型録でもなくネットのまとめ情報でもない第三の道を行くことにしたのである。

蝸牛随筆(11) チャイルドシート綺譚Ⅰ

 希有なことが起こった。

 チャイルドシートの型録をぺらぺらめくっていたところ、見慣れぬマークが付いている。何かのブランドというわけでもなく、最新式と紹介がなされたチャイルドシートには、ことごとくこの「ISO・・・」某に対応と表記がなされている。

 世の中に出回るあらゆる商品について、およそ門外漢であることを自負している私であるが、殊チャイルドシートに関しては赤子同然と申しても過言ではない。さはれここは東北、仙台から北へ一時間も下った「車文化圏」である。

 つまるところ、車がなければあらゆる面において苦労を強いられるし、妻を産婦人科へ連れて行くこともままならなければ、誕生した我が子を退院させてくることすら叶わぬ。そんなわけであるから、チャイルドシートは必要不可欠の買い物とならざるを得ないのである。

 まさに背に腹案件。型録には大量のチャイルドシートが掲載されてあり、膨大な情報とその差異が氾濫している。どれがよいのかも定かではないし、そもそもこの某マークのどういった点が優れているのかすら判然としない。この型録は錯雑とし過ぎているのだ。定義はどこか、価値判断の基準はどこにあるのか。そしてこの最高値と最安値のあいだには、如何なる懸隔があるというのか。これでは論文やら哲学書を読む方が、よっぽどラクではあるまいか。

 開く紙面ごとに幸せそうな人々が、チャイルドシートを囲んで白い歯をみせている。もちろんそのチャイルドシートはよっぽど上の等級品であり、そこに鎮座ましましている赤子は満面の笑みで、その座り心地を賞賛しているかのようである。そして何より、たいへんな違和を覚えるのはこのチャイルドシートがリビングの真ん中に据えられているという点である。何故、チャイルドシートのくせに車内にないのか、これもまた摩訶不思議である。

katatumurinoblog.hatenablog.com

盆栽教育論(8) 実生苗と幼児教育Ⅲ

○初動の失敗に学ぶ

 自分の盆栽棚を眺めている時、いつまでもうだつの上がらない子供をみている時、私はいつも「ああ、初動が失敗しているなぁ。」という感慨を新たにしています。

 盆栽における初動とは、他ならぬ「立ち上がり」というお話しは前回までのところでひとくさり語ったわけですが、子供における初動とはまさに最初の教育、すなわち「幼児教育」を指すものであります。

 「立ち上がり」を魅せる樹にするために、実生苗のうちにしっかりと負荷をかけて、将来性のある一曲を入れるように、それは幼児にもまた同様の負荷をかけることを断行せねばならない、と私は考えます。

 とは言え、血も涙もなく幼子に針金を巻くわけではないので悪しからず。大事なのはそれを「負荷」と思わせない工夫を忘れずに、子供が一日にこなすことの出来る作業量(キャパシティ)を増やすことなのです。

 ですから私が言う「初動失敗」の子供とは、いざ勉強に本腰を入れねばならない時期に、それを許容するキャパシティが育っていない子供であり、およそ学習の負荷に耐えきれない子供の謂いに他なりません。

 幼児から読み聞かせや、親御さんとの語らいを日常的に積んできた子供と、お世辞にもそうとは言えないような子供を比べると、その許容量には明らかな開きがあるのです。途中で我慢の限界に達して爆発する子もあれば、地道に課題をこなす驚くべき忍耐を発揮する子供もあります。

 そして何より、こうしたキャパシティの差は学年が上がるにつれて歴然としてくるのです。「まだ小さいのに、そんなにムリをさせなくても・・・。」という意見をよく耳にしますが、結局の所そんな外野の杞憂こそが、子供の将来性を蔑ろにしていると言わざるを得ません。
 

盆栽教育論(7) 実生苗と幼児教育Ⅱ

○大きくなってからでは・・・

 剪った曲げたは盆栽の常であり、時には大胆に鉄棒なんかをあてがって大がかりな改作などが行われるわけですが、やはり「立ち上がり」となるとそうはいきません。

 樹が最もよく太って硬くなる部分である「立ち上がり」は二年、三年もすれば立派に肥大化し、とてもではないが曲げられない状態になります。まだ細みのある枝や、その枝先はいくらでも針金による矯正が効くのですが、ここばかりはなかなかどうして「後から手を加える」ということが出来ないのです。

 だからこそ「立ち上がり」の如何は、その盆栽の将来的価値を決めてしまうと言っても過言ではないのです。いくら名人が腕をふるっても、「惜しいなぁ、やっぱりここがネックなんだよなぁ・・・。」とミソが付いてしまうように、殊に立ち上がりの棒伸び(直線的な幹筋)は、その樹が然るべき段階を経てこなかったことを如実に物語ってしまいます。

 必要なのは「先に手を加える」こと。言葉の通り「枝葉末節」は、ちょっと乱暴ですが、後からどうにでもなってしまうのです。枝葉末節にばかり拘っても、肝心の本の部分が疎かであれば、その価値はたかが知れてしまうというもの。

 では、どうすればよいのか。答えは実に単純であります。それは樹がまだまだ小さい、謂わば「実生苗」と呼ばれるような時期に、しっかり根元に一曲入れてやることなのです。

 そんなに細い苗木に針金をかけて・・・と思われる方もあるでしょうが、細いからこそ柔らかく、柔らかいからこそ安全に曲げることが出来るのです。ある程度成長して大きくなってきた樹となると、こうはいきません。

 いい加減大きくなってしまった樹に無理な負荷をかけた日には、樹皮は裂け最悪の場合、ぽっきりと根元から折れてしまうことでしょう。「小さいから可哀想」という先入観は、この際不要なのであります。

 となると、これは「人間の実生苗」にもそのまま同じことが言えるのではあるまいか・・・。試みに、考察の足を人間界に伸ばしてみようではありませんか。

盆栽教育論(6) 実生苗と幼児教育Ⅰ

○立ち上がりこそ

 盆栽を観賞する際の重要な評価ポイントの一つが「立ち上がり」と呼ばれるものです。

 その名の通り、表土から伸び上がって、最初の枝に至るまでの幹模様(幹の様子)を指して「立ち上がり」と呼ぶわけでありますが、ここに曲(ひと曲がり)があるかないかで、その盆栽の価値は驚くほど変わってくるのです。

 例えば、立ち上がりの曲こそないけれど整った樹形で完成されている盆栽と、同サイズ同種の樹で立ち上がりは好いけれど、まだ手が加わっていない寝起きの頭みたいな素材があったとします。盆栽をはじめたばかりの私であれば、きっと前者に飛びついたことでしょうが、流石に私も痛い目を見ながら曲がりなりにも学んだ身、今ならだんぜん後者の荒木をにやにや玩弄して、早速お財布と相談をはじめることでありましょう。

 果たして、それは一体どういう価値尺度によるものなでしょうか。単に私が「立ち上がり」に異常な拘りを見せる、盆栽愛好家特有の性向を身につけたということなのか、と思われても仕方がないふしはありますが、これには歴とした理由があるのです。

 盆栽の「立ち上がり」とは、その樹にいつから、どれだけ人の手が加えられてきたかを示す、ひとつの指標なのです。立ち上がりにしっかりと曲が入った樹は、それだけ若い時期から将来性を見据えた計画が織り込まれた樹であり、それこそ丹念な幼児教育を経た樹と言っても差し支えがないのです。

弟子達に与うる記(20) ジョーホー過多

 このほど大学入試に「情報」という科目が課されるとのこと。私だったら百パー詰んでいた、と胸をなで下ろしておる次第でありますが、今の時代を生きる諸君は、きっとこの手のことにも強いだろうし、私のようにこうした科目を未履修で来たわけでもないでしょう。

 「ワード」と「ポメラ」しか使わない世界に生きる私は、およそ「エクセル」というものを使うことが出来ません。「パワーポイント」ならば小学校の頃に習い覚えたので何とかなるでしょうが、「エクセル」というものを自在に使いこなす人を見る度、他人ごとのように「すごいなぁ。」という感慨を新たにするばかりです。

 かつて大学の授業で「情報処理」というのがあった時はたいへん苦労しました。あのエクセル関数というものがテンで分かないのに、私を置いて教員の説明がどんどん進み、仕方が無いから机の下で嵐のように筆算して数値を手動で入力していたところ、見事に御用になった次第。

 それでも私は、これから「エクセル」を使える人になろう、とは思っていないのです。何が言いたいのかと申せば、ムリをして自分に向いていないものを覚える謂われはない、ということを「情報」の時代と逆行して、いや「情報」の時代であるからこそ述べたいのであります。

 諸君だって、どうにも性に合わないものや、およそ自分に向いていないと直覚するものの一つや二つもあるでしょう。どうしても必要に駆られればやむを得ない場合もありますが、世を渡っていくにあたって、可能ならばムリはしない方がいいと私は思うのです。

 自分の度を超えたことを、その場しのぎで半端に学ぶよりも、寧ろ自分が得意とするところを磨いた方が、結果的に社会に利するところが大きいのではないでしょうか。

 大事なのは、いざという時に自分の不得意と得意を交換しうる相手を見つけることなのです。「こっちはオレが引き受けるから、君はどうかオレが不得手なこちらを頼む!」とした方が、お互いにハッピーであるし、よっぽど合理的であるし、何より人間的な感じがします。

 「情報処理」もいいけれど、何をそんなに大量の情報が要るものか。あれもこれもと「情報」に振り回されるよりかは、いざという時に具えて、己の必殺の武器を研ぐにしくはありません。

盆栽教育論(6) 鉢に入った子供Ⅴ

〇変わるべきは子供?

 近年は、スマートフォン、及びSNSに依存する子供の増加が問題になっているわけですが、現今の家庭「環境」を想像すればそんなのは最早必然のことと言えます。

 もし子供をスマートフォン依存から立ち直らせたいのであれば、子供にかくかくしかじか申しても無駄なのです。何せ周りの大人がことある毎にスマホにお伺いを立てたり、そうでない時も四六時中スマホの画面に魅入られているのですから、そんな大人が「おい、スマホいじりもいい加減にしなさい」なんて言ったって説得力のかけらもありません。

 本気で子供のスマホ依存をどうにかしたいのなら、スマホだらけな周りの環境に大きなてこ入れをしないことには、スマホ漬けの子供をそうでない環境へと植え替えることは不可能なのです。

 実際のところ、スマホ依存に限らず、様々な家庭的理由から「環境的植え替え」によってしか立ちゆかない状況に追い込まれている子供は、どこの教育現場にも存在していることでしょう。枝葉をどうのこうのと整える前に、その大本の部分に勢力がなくては、好もしい方向に伸ばすための指導も甲斐がないのです。

 根を切り環境を更新するには、それなりのストレスと痛みが伴うように、人間の環境更新にもまたそれ相応の覚悟と根気が要るのです。用土を丹念に選別するように、細心の注意とともに古土を落としていくように、「子供の環境的植え替え」は子供を取り巻く周囲の大人が主導し、そして大人自らが変革を受け容れねばならないのです。

 まずは土壌から。環境をつくるのは大人であり、環境を変えるきっかけをつくりうるのは、子供のよき理解者たるべき大人を置いて他にありません。

 そして苦心の末に植え替えが済んだら、たくさんの言葉とそのキャッチボールを通して、変革に伴った痛みとストレスをケアしてあげるにしくはないでしょう。