かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

かたつむりの歩み

 なぜ当方の屋号が「かたつむり」なのか、ということを問わず語りに語ってみようと思います。
 かたつむりは、それなりに丈夫な殻と、やわらかな身体を持っています。同じ殻ならば「ヤドカリ学舎」のほうがよほど頑丈そうですが、私がかたつむりに魅かれるのは、堅い部分もやわらかな部分もどちらも持ち合わせているという点にほかなりません。
 塾生のみなさんが、将来立派にそれぞれの学問を修め、なおかつ人間として成熟していくためには、ある程度のタフさ(頑丈さ)も大切ですが、それと同時に誰かをいたわったり共感したり、自分の内にあるものを柔軟に表現していくソフトな部分がなくてはなりません。ひたすらに完璧を求め過ぎるタフさは、いま中東を騒がせているテロリズムのように、極端な偏見と狭い視野しかもたない貧相な思想に結びついていきます。
 学問を修めることとは、ものの見方と考え方を学ぶということです。例えばここにひとつの「りんご」があります。しかしこれを哲学的に存在論的な観点から捉えるのか、こころの襞が織りなす陰影とともに文学的に表現するのか、あるいは科学的、物理的に把握するのか……そうした物の見方、考え方は実に多様であって、それはまさに学問の数ほどあるのです。このように、学問とは常に新たな視点を世の中に還元していくものであり、ファシズムテロリズムをはじめとする過激思想がもたらす、凝り固まった世界観に胸を張って、「いや、そうとは限らない!」と異議を提出すべきものなのです。
 中学、高校生のみなさんはいま勉強という名の望遠鏡を通して学問の一端にふれています。それはあくまでイントロダクションであって、学問の庭を教科書の隙より垣間見ることにすぎません。はたしていつ自分が「これだ!」と思える学問に巡り合えるのか、そもそも自分の学びたいこととは何なのか、まだまだ先が見えづらい中にコロナの靄までかかって、いよいよ前途茫洋たることでしょう。
 しかし、そんな状況であっても、私たちは日々を生きている以上、とりあえず未来の方へ流れていかなければなりません。この日々の流れのなかで、たとえささやかなものであっても、みなさんが勉強というものを通して、新たな考え方に出会ったり、それにともなって自分の新たな興味を発見をすることが出来たとしたら、それは何にも代えがたい前進となるはずです。きのう見た景色と今日見る景色がそんなに変らないような「かたつむり」の歩みでも、三ヶ月後、一年後、三年後にはあの頃の自分が遥か彼方から手を振っている、そんな成長を積み重ねてほしいという思いを込めて、私は「かたつむり学舎」の看板を掲げています。
 ここで得られたものが、未来を生きていく塾生のみなさんの杖となり糧となることを心から願っています。