はじめて出会って以来、マスクの下の顔を見たことのない子だっている。
流行り病の一昔前は、花粉症でもなしに夏でもマスクを外さない子があって、これが学校ならばたまに生徒指導案件にものぼったものであった。いずれの教育現場であれ、子供の表情の機微は、彼らの調子や気分をはかるうえでの貴重な指標なのだ。
それが今となっては、この有り様である。二歳児が、三歳児がけなげにマスクをつけて机に座っているのを見ると、わけもなくいたたまれない気持ちになる。そんな人々がマスクをびちょびちょにしながら、へんてこなアクリル板越しに大人の喋るのを謹聴している光景が、いつか遠い未来の笑い話のタネになればいいと願う。
そんなことを願っている私は、最近随分と鼻毛の伸びるのが早い気がしてならない。コロナがはじまってこの方、どうせ見えやしないからと、ひげもロクにあたらずに教室へでる。もちろん鼻毛なんぞノーマークであるから、家居に帰ってようやく妻に「あなた、鼻毛出てる。」なんて言われてようやく切りにかかる。けれど鋏を鼻に突っ込んで、「あれ? こんなことをこの間もやったよな」と思い当たり、またマスクと鼻毛の関係について取り留めもなく考える自分がいる。
マスクの中の湿気が、鼻毛の生育に適しているのかは知らないが、ひげにしろ鼻毛にしろ、覆われてしまって久しいパーツが、他者と向き合い、迎え入れるツールとしての顔から脱落してしまったような気がしてならない。自分の鼻毛を心配できる日々を、あるいは私の鼻毛を発見して子供たちの口辺がゆるむ日を、いまは春の訪れのように待つばかりである。