かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 《分かる》を分かりたい

 《分かる》とはどういうことでしょうか。
 これはよく耳にする話で、私自身も上京した時に体験したことなのですが、大きな荷物を抱えて東京駅の新幹線ホームに降りたまではよいが「ハテ、どこにいけばよいのだっけ?」と途方に暮れたことがあります。前に来た時は誰か必ず引率の先生や家の人が一緒だったので、そんなことを考えたことさえなく、「東京に着けば分かるだろう」と思っていた自分の馬鹿さ加減を痛感し、それから必死に自分が乗る電車のホームを捜して、上京早々イヤな汗をかいたことが思い出されます。
 この時の私は言ってみれば、東京の電車について分かったつもりでいる状態で、本当はまるで分かっていない状態であったわけです。ではなぜ《分かったつもり》になっていたのか。それはおそらく、私が道案内され慣れてしまっていたせいでしょう。これは私のみならず、誰にでも共通する問題なのですが、誰かに道案内をしてもらう、つまりは誰かに手取り足取り教えてもらっていた結果、《分かったつもり》におちいってしまい、いざひとりで東京駅に降りた時、あるいは教えられた内容をテストされた時にはじめて、分からないことに直面して周章狼狽してしまうのです。
 《分かったつもり》なのに分からない状態とは、何も分かっていなくて手も足も出ない状態と同じです。手取り足取り教えられているわけですから、それも無理はないでしょう。やはり《分かる》ためには、教えられたことを反復して、それに慣れなければなりません。この点はスポーツや楽器の練習と同じ。ですが、教えられたことを反復できるようになるだけでは、まだ足りないのです。
 《分かる》ということは、食べ物から栄養を取り入れるための身体の働き、つまりは《消化》の過程に似ています。口から摂取した食べ物から栄養を吸収するように、われわれは教えられた内容を、自分でこなせるように反復し、そこから別の問題へ取り組んでいく段階で、得られた知識や技術を応用していきます。そして応用が出来るようになるためには、やり方を反復するだけではなく、そこから一歩進んで、何のためにこのやり方を学ぶのか、というところまで理解する必要があります。これこそが《分かる》ということなのです。
 これは所謂〈メタ認知〉と呼ばれるものだと私は理解しています。例えば数学ならば計算のやり方を覚えて終わるのではなくて、「そもそも何をするためにこの計算を使うのか」「この計算結果がどんな意味を持っているのか」、国語学習で見れば「この段落と次の段落がどんな関係にあるのか」「どのような手つきで筆者が自分の論旨を展開しているのか」等といったものでしょうか。「この操作をすればこの問題が解ける」の安易なパターン学習はなくて、問題を読み、そこで何が問われているのかをしっかり把握した上で「それならば、この手続きで解答にアクセスするのが一番ふさわしいのではないか」と考えられる人こそが、学んだ知識や技術をきちんと《消化》している人なのです。塾生の皆さんにはぜひとも、この《分かる》ことの大切さを分かってほしいと思います。