かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆・再考 空気みたいなアイツ

 盆栽との付き合いならぬ「お付樹合い」がはじまると、仕事をしている間などは、水切れを起こしていやしまいか、とか今度の週末には鋏なんか入れて風通しをよくしてやろうとか、とかくアツアツなご関係になるものです。生活がかかっているガチ勢は別としても、愛好家のベテラン勢の中には、やはりこのファースト・ラブのときめきをそのままに、三十年、五十年と変わらぬ愛と情熱を注ぎ続ける方も居られますが、これはなかなかどうして大変なことです。
 では、私の場合はどうなのかと申しますと、次のような表現をせねばなりますまい。「好きであるけれどもアツアツってワケではなくて、例うるならば、私にとっての盆栽って、空気みたいな存在かも?」という、いかにも年期の入った夫婦関係っぽい「お付樹合い」をさせていただいている次第で。決してマジメとは言えないけれど、盆栽は私の日常の一部であり、生活サイクルにとけ込んでしまっているのです。すると、ぼちぼちアノ手入れをしてみようとか、このくらいの天気なら水はやらなくても大丈夫とか、盆栽との生活の中でイイ加減に力が抜けてくる。変な話、そうした方が「〇〇せねばならぬ」のバイアスから解放されて、もっとフランクに関わることができるのではないか、とさへ思えてくる。
 それって、ぶっちゃけ手抜きじゃねえの? とツッコまれる御仁もあるやも知れませんが、まあ、手抜きといえば手抜きです。さはれ、人間と樹の寿命を比べれば、鉢に入っているとはいえ、それなりな手入れを怠らなければ、ダントツで向こうの方が百年二百年と生きることになります。だから、この時間的ギャップを考えると、少しくらいこちらが手を抜いてやった方が、向こうの生きるテンポに調子を合わせやすいのじゃないだろうか…とマジメでない自分にこっそり免罪符を発行してみたりもするのです。
 私の見解の是非はひとまず措くとして、樹の成長とはとかく遅いのが当たり前。けふに寝てあしたに起きれば、昨日の樹が見ちがえているなんて事はまずありません。それは子供の成長も同じで、教育における特効薬が応にしてうさんくさい点取り虫の付け焼刃、肝心なその子の将来のための栄養にならぬように、樹もまた長期的なスパンで計画を立てて育成してゆく必要があります。第一、そうしなければ面白くありません。
 長い「お付樹合い」なのです。だからお互い気をつかい過ぎず、されどどこかで心にかけている、そんな関係が大事なのではあるまいかと私は思うのです。仕事でふさぐ日、脳味噌が腐りそうな夕べも、庭に出ればそこには小さな緑のオアシスがある。忘れたころに不図、なんかイイなと思わせてくれる。これぞまさしくソーコーのなんとか。