かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

定点観測(7) 消しゴム男爵の登場

 採点デスクの真ん前にぬうっと現れての第一声が「けっ、」だと、流石にビビる。消しゴム男爵と出会ったばかりの頃は、食いつかれるのじゃないかしら、と本気で思ったものである。
 喉の奥から絞り出すようなロー・ボイスで、彼の報告は次のようにつづく。「けっ、消しゴムを、忘れたので、かしてください。」私はここに彼の成長を見てしまう。なぜなら彼は当初、「消しゴム、ない。」としか申告できず、今まさに採点やら指導に忙殺される私や妻に「おう、そうかい。」と言われてへどもどしていたのだから。
 しかし、である。そもそも彼が消しゴムを借りるなんてことに成長を見られるくらい消しゴムを忘れるのは、一体如何なる理由によるものなのか。それは一つに彼が公文用の筆箱を持たないためであり、なおかつ一度家へ通学カバンを置いてくることによるのだろうが、いまだその核心に迫ることは出来ない。
 風にたなびく草原みたいな、つんつんふわふわヘアーに、くりくりまなこの消しゴム男爵が、今日も陽の当たる通りを風になびかれながらやってくる。向こうの机で鼻たれ小僧さんに読み聞かせをしている妻に目配せすると、向こうもそれに気づいてニヤリとする様子。今日は持ってきたのか、はたまたいずれも忘れたのか、登場した瞬間から消しゴム男爵は熱いまなざしで見守られているのだ。
 手を洗い検温表を記入し、カバンを開けて宿題を出す。ここまではそつのないムーブであるが、ここからが彼の十八番。全部物を出したはずの公文カバンの中を、「なんだと? 吾輩の筆記具がないだと?」みたいな感じで覗き込んだが早いか、今度は手を突っ込んでカバンの底の深淵を探る。月に五回くらいはここからシャープペンシルが召喚されるが、消しゴムが出てくるのは多くて月二回といったところだろうか。
 今日はシャーペンだけだな、というのがだいたい判明したら、そっと忘れ物入れからちびた消しゴムを用意しておいて、男爵が例の口上を述べにいらっしゃるのをお待ちする。だけれどごく稀に、どちらも持っていることがある。「お、今日は持ってきたナ!」とは言わないけれど、感心して見ていると、何故かまた私の所へやってくる。覗き込んだつぶらな眼が光って、ためらいがちに少うし揺れて、「宿題を持ってくるのを、忘れました。」。