かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 明日の学問のために 後編

 では改めて、現代日本社会を生きる私たちは、何のために勉強をして、何のために大学へ行くのでしょうか。私が考えるその答えは《学問を修めるため》です。
 「いやいや、そんなキレイ事を」と言われるやも知れぬのは覚悟のうえですが、果たしてこれは、「キレイ事」でしょうか。昨今の日本学術会議の一件然り、いまの日本の学力水準の低下は、およそ学問することを「キレイ事」と言わしめてしまう環境、つまりは学問を蔑ろにすることが当たり前になりつつある環境がもたらしたものと言っても過言ではないでしょう。
 前回取り上げた小噺の一節、「良い大学に入ったから、良い会社に就職できる」という命題はあくまで、良い大学で学問的研鑽を積む、という大前提があってはじめて成り立つものだと私は考えます。なお、ここで云う良い大学とは、決して偏差値の高い大学を指すものではありません。良い大学とは、自分にふさわしい学問に没頭できる環境が整った大学であり、間違ってもクイズやらなぞなぞが強い大学を指すものではありません。
 学問を修めることとは、突き詰めて言えば多面的な《ものの見方》を身につけることであり、そしてそこから得られた新しい知見を社会に還元していく営みにほかなりません。だからこそ、名前が知られた大学に入って、二年、三年と遊び暮らして就活して、やっつけの卒論を書くような人材はナンセンス極まりないわけですし、大学の方もまた、こんな職業安定所的な使われ方をされるうち、日本の学問的水準は否応なく低迷の一途をたどることでしょう。大学はドウグ(道具)ではなく、グドウ(求道)の場所であらねば意味がないのです。
 かたつむり学舎を開いて以来、私の指導理念は変わりません。定期テストの点取り虫を育てても、入試のためのゲタを履かせても、何一つ将来的な展望は見えてきません。大学で学問し、そして議論するために必要な論理的思考のトレーニング、思考し表現するために欠かせない語彙力の補強、そしてあらゆるテクストを〈読む〉力の涵養こそが私の注力するところなのです。私の門下生がいつの日か立派に学問を修め、そしてそれを社会に還元してくれる日こそが、私の修め培ってきた学問が社会に還元される日なのだと思います。