かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(3) 職員室に灯を

 とあるテレビゲームのなかで、亡者状態になったプレーヤーが「人間性」というアイテムを使うことによって生者に戻る、なんてシステムがある。するとパサパサのお肌と黄ばんだ白目が、在りし日の姿を取り戻し、筋力がアップしたり、協力者の助けを得られたりと、何かと都合がよい。
 と、私はゲーム攻略の話をしたいわけではないのだ。昨今の教員の話をしようと思っていたところ、ゆくりなく「人間性」というワードに感じるところがあって初っ端から寄り道をしたわけなのである。
 少しものの分かった高校生に、教員とは? と尋ねると「すげぇ、ブラックっすよね」と返答される。ちょっと前までは、私も門下生に「いざという時に食いっぱぐれないよう、教員免許だけは取っておけ」と言っていたものであるが、最近は滅多なことでは言わなくなった。
 なにせ自分だって、あのエンドレスなデスマに舞い戻り、授業に全力投球するならまだしも、それ以外の些事に忙殺疲弊させられて「人間性」をすり減らすのは御免である。百歩譲ってスタインウェイのピアノを買うため学校に出稼ぎに出るとかならば、心が揺れないこともない。しかし、自分の勉強をしながら、子供と教育にダイレクトに関わり、その副産物として何かしら物を書いている今の生活の方が(スタインウェイこそ買えないけれど)私の性には合っている。
 現今の学校現場、いや職員室に欠乏しているものは、教員のゆとりである。今さらの働き方改革で、教員の残業率が数パーセント減ったとか成果を騒ぎ立てたところで、そんなのはかつての大本営発表の信憑性に等しい。現に休日の学校の駐車場に、あんなにも先生方の車が停まっているのは一体どういうことなのか。
 自己研鑽に努めることは、教員の義務である。そう、文科省も書いているではないか。子供に話したら笑われるようなアホらしい研修でいたずらに教員を煩わせ、時間的圧迫を強いたり、新人教員をムダに遠方の勤務地に飛ばす愚行は、早晩改められなければならないし、加熱した部活動が帳消しにした教員たちの土日は、よろしく奪還されなければならない。
 彼らはあくまで人の師なのである。大学でそれなりの学問を修めてきたはずの人々なのである。自分の専門とする学問の研究、あるいは指導技術の向上は、教員になった後も日々探求されなくてはならないものであるはずだ。この探求を通してこそ、教員に欠くべからざる「人間性」は磨かれ、そこに子供たちを引きつける人間的なゆかしさが備わるのだと私は思うのである。
 教員のゆとりを奪うのは誰か。教員をパサパサの亡者状態に干上がらせて得々としている狼藉者は誰か。彼らは決して替えのきく人材ではないのだ。この国は教員のみならず、そんな人々を大事にしなさ過ぎた。エッセンシャルワーカーと呼ばれる人々に、そして疲弊の見本市みたいな職員室に、いまこそ「人間性」というあの灯(ともしび)が求められている。