「これ、ナニ屋さん?」
先刻まで順調に国語の教材を解き進めていた子が、こんなの知らないンですけど、という顔で尋ねるので、あやしがりて寄りてみるに、小さな指が八百屋さんのイラストを指して止まっている。答えを書く空欄には、実に自信なげな文字で「やさいやさん」の文字。なるほど、「はなや」「さかなや」のノリで書いてみたのだろうが、あまりに耳慣れぬ響きに当惑してヘルプを求めてきたとみえる。
これは無理もない。およそ今この教室に座っている子供たちの誰一人、八百屋さんへ行ったことがないのだ。彼らが行くのはせいぜいスーパーの野菜売り場であり、その流れでいくと魚屋も肉屋もだいぶあやしくなってくる。この間などは、またプリントの「せんぬき」について尋ねられ、危うく「プロレスの…」と、喉元まで出かかったのを押しとどめて「瓶の蓋を開けるやつだ」と答えたところ、「ああ、ビールのふたをあけるやつね。」と、ひとりで納得した様子。これには流石に一本取られた。
赤ペンを持つほうも、教材を作るほうも当たり前だと思っていたことが、最近は当たり前ではなくなってきている。今ぢゃもう死語だから、そんな問題なくしてしまうのがよろしい、という意見もあるかと思う。確かにゴモットモではあるけれど、それでは些かさびしいではないか。
せめて自分の目の黒いうちは、別に使うアテもないかも知れないけれど、馴染みの言葉には生きていてほしい。もしかすると遠い将来、出しぬけに「八百屋のブタゴリラがさあ」と語りだした時に、自分の孫か何かに「ヤオヤ? 何を奇妙キテレツなことを言ってンすか?」という顔をされたら実に荒涼たる感じになるだろうから。