教育において「分かりやすい」ことが金科玉条とされて久しい。簡潔な説明、明快な論理が導き出す分かりやすさは、教育現場のいかなる場面にあっても必要不可欠なものである。しかしながら、私にはこれだけだと何か物足りない気がしてならないのである。オトナの口から出るセリフがみながら「分かりやすい」というのも、ちょっと不自然な感じがしないだろうか。
いつかどこかで「そういうことだったのか」と納得できる言葉がある。かつての恩師が、まだ君たちにゃ分ッかんねぇだろうなぁ、という顔して投げかけた言葉が、ある日唐突に時を超えてその謎を明らかにするのは、さながら播かれた種が長い休眠から覚めて芽吹くのに似ている。それはちょっとした感動であり、腹の底からの「なるほどな」を連れてくる。
時間の経過とともに分かるようになるものもあれば、そうでない類いの言葉もある。種の発芽に土壌や日照が関係してくるように、とある言葉の謎を明らかにするにあたって、それなりのレベル、つまりは研鑽が必要になることもある。殊に、せっせと人生経験を積んで、知的なレベル上げに励むことを通して「後から分かった」言葉は、何にも代えがたい価値を有する。なぜなら、それが分かった時、はじめてわれわれはその言葉を投げかけた人の地平に立って、彼の伝えんとしていたことや、彼がひらいて見せたかった思考の一端を共有することができるのだから。
「後から分かる」言葉とは、言うなればそれを投げかけた人物の〈深み〉からでるものであり、そこについとわれわれを覗き込ませたくさせるゆかしさを胚胎しているものなのやも知れない。明朗な主題と、それを下支えする通奏低音の関係のように、「分かりやすさ」とそうでない部分とがうまく共存して調和する環境が素敵だと思うのは私だけだろうか。