かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆・再考 ハリガネと教育 前編

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 私たち盆栽愛好家は、樹をつくるにあたり、せっせとその枝に針金を巻きます。勿論伊達で巻いているわけではありません。将来的にそうなってほしい姿をイメージしつつ、枝を下げたり方向を修正したり、時には針金をかけ渡して引っ張ったりしながら、樹を仕立てていくのです。
 さて、盆栽に針金をかける時は、むやみやたらと悪役レスラーの衣装みたいに、ギラギラいかつくしてはいけません。巻きすぎると、その枝の成長を抑制し過ぎて枯らす羽目になります。なのであくまで針金は最低限。そして枝の向きに応じて巻き方を変え、枝の太さに応じて番手(太さ)を選ぶ必要があります。効きが悪いからといって、がらがらと三本も四本も、枝幹が見えなくなるまで巻き付けるのはいよいよナンセンス、ここぞという箇所こそ、最適な太さの針金と技術でしっかり曲げきらねばなりません。
 と、タイトルに「教育」と銘打ちながら盆栽の話を問わず語りにはじめるとは如何なる了見であるのか、盆栽愛好者を増やしたいからと云って、タチの悪いツリ文句なんぞ出してくるでないと叱責せられても仕方ありません。しかし、どうにも私には「盆栽」と「教育」という、この二つのものが、その根っこの部分で繋がっているように思えてならないのです。
 教えるということは、必ずしも子供にとって全てが善であるとは限りません。「将来的にそうなってほしい」方向へ彼らを導くことは、見方を変えれば放っておいてものびのび生きていく自然状態の彼らをして、ある種の型にはめるよう負荷をかけることに外なりません。ですが、そうすることによってはじめて、彼らは私たちの生きる時代の環境に順応し、そこに根を下ろすことができるのではないでしょうか。
 こうした教育の目的は、あくまで彼らがいざ社会という場所に出た時に不自由しないようにしてやること、そしてその結果として将来的な選択肢が広がるよう塩梅してやることに尽きるでしょう。さもないと教育は、老荘の教えが説くところの本然の生を阻害する毒にこそなれ、何の益をもたらすものでもなくなってしまいます。
 いかがでしょうか? 盆栽、殊に先述したところの「針金かけ」と教育が同じテーマを共有していることにガッテンしていただけたでしょうか? (次回へ続く)
 
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