気づいたら私の採点デスクの最寄りの席に、消しゴム男爵が座っていた。え? いつ来たの? ってなくらいのステルス性能である。しかも既にして、泣く子も黙る四則混合をわしわし片付けているではないか。
昔とあるゲームで「五月雨斬り」というのがあったけれど、彼の計算はシュラシュシュシュ、と目にもとまらぬ早さで筆が走って、一切のムダが削ぎ落とされた途中計算から、ストンと答えが転がり出る。ただし、一つ弱点を挙げるとすれば、如何せんその筆が控えめに申しても悪筆の部類に入るということ。印字された数字を計算させれば右に出る者はなかなかいないだろうが、彼の場合は、自分の書いた数字で自分の首を絞める結果になるのだ。
今日もグレン・グールドみたいなスピードで数式が滑っている。それを私はいつもの如く、よきかなよきかなと見ている。するとその刹那、これまたグールド的な休符の格好で、ピタッとシャーペンが止まる。嗚呼、この緊張がよい。子供もオトナも二人して息をのみ、無言のままにバッハと、数式との対話がなされる瞬間である。
紙上を覗き込んだ私がその原因を発見するかしないかのうちに、彼の上体がビクンと反応した。早くもミスを発見したのだろう。しかしどうも様子がおかしい。動揺は上体のみにとどまらず、身体全体が空をつかむような仕草で泳ぎだしたではないか。もしや、腹でもさし込んだのではなかろうかと心配していると、その動きがピタリと静止して、代わりに例のくりくりまなこが「やや、吾が輩のナニがナニであるぞ」という感じで机上をなめるように行きつ戻りつすると、こちらに向き直っておもむろにひと言。
「先生、っけ、消しゴムを忘れました。」というか今までよくぞそのシャーペン一本で、こんな複雑極まりない計算を相手に立ち回っていたものである。もしや、彼はミスさえしなければこのままシャーペン一本で本日の教室を乗り切るつもりだったのではないかしら、と思うにつけても今後の消しゴム男爵の動静から目が離せない今日この頃なのである。