かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(5) 一回、黙ろうぜ。 前編

 聞く耳をもたない子供の親に限って、尋ねてもいないことをずっと喋っている。子供が何か話そうとしているのを遮ってまで、何をそんなに喋ることがあるのかと、いつも不思議に思う。代弁してやっているつもりなのであろうが、それはあくまで親の主観百パーセントな自己語り(モノローグ)に過ぎない。寧ろそれを聞いてほしくてベラベラと喋り散らすことによって、カタルシスを得ているのだろう。だから「相談しに参りました」と言いながら、ホントのところ自分の頭の中では全て決定済み。あれこれ相談しているフリして、結局は自分が独り合点したことを自分で改めて納得したいだけなのである。
 まあ、これも仕事だと思えば、御飯を食うためであるから割り切ることもできる。さはれ子供が横に座っているところで、臆面もなく「この子は全然勉強が出来ない」とか「集中ができない」「何をやってもダメなのだ」とか申し立てる類いの親には、全く以て辟易させられる。もし私が子供の立場であれば直ぐさま席を蹴って、この親に「一回、黙ろうぜ」と忠言せずにはいられないだろう。
 冒頭の言を改めよう、その子供は聞く耳をもたないのではなくて、聞く耳をもてないのである。彼らは先回りをされすぎた。何か言葉を絞り出す前にその芽を潰される。全ては親が語ってくれるのであり、「そうでしょ?」に乗っかっていれば、とりあえず自分は安泰なのである。だから赤の他人の前で自分の成績をディスり尽くされても平気であるし、この親の言うことに従っておれば何とかなるだろう、という悪夢から覚めることすらままならない。
 「一回、黙ろうぜ」、黙れないのは子供を信用していないことの何よりの証拠である。そんな親たちは決まって、子供が発話するまでの空白の「間」を堪えることができない。そう云うのを先哲は「間が抜けている」と評したのではなかろうか。われわれ日本人は生活、文化のあらゆる場面において「間」を大切にしてきた、とか云うのはもはや伝説か何かの話なのだろうか。近頃はあらゆる手「間」を省くことばかり、半ば強要されがちな世の中になってきたけれど、人と人の、ことに親と子の「間」だけは抜いちゃいけない、と私は思うのである。(後編に続く)

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