かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(6) 一回、黙ろうぜ。 後編

 「間」が抜けているのは、子供を待ってやれない親のみならず、教員にだっている。そして彼らは沈黙する子供を前にべらべらと性懲りもなく、空滑りするコトバを吐いて得々としている。言葉のシャワー? いや、これは意味が違う。親の代弁が子供の言葉の世界を広げるわけがない。寧ろそれは洗脳に近い歪んだ教育であり、子供にその狭隘な視野をそっくり受け継がせる愚行に外ならない。そんなに沈黙が怖いのか、そんなに自分の子供が信用ならないか。なるほど、つまるところ親や教員としての自分に自信がないだけなのだろう。
 自分と子供とのあいだに生じた「間」が耐えがたいものになるか、はたまたそこに言葉が介在せずとも、親子の豊かな精神的紐帯を感じ得るものとなるかは、その信頼関係にかかっているのだ。
 ベケットの『ゴドーを待ちながら』を引くまでもないが、何かを信じて待つということは、人間にとってたいへんに忍耐のいる仕事である。だからつい、待ち人をこちらから探しに出かけるようにして、もじもじする子供の代わりに親が喋りたくなる気持ちも分かる。しかし、そこのところをグッと堪えてもらわないことには、いつまで経っても子供は自分の言葉を獲得することが出来ないし、その言葉によって思考することすらままならない。そして、また何かの場面で同じ事を繰り返す羽目になる。こうして考えないオトナ予備軍がまた一人増えるのである。
 「沈黙は金」なんて言葉を誰かが言った。その子供の深い沈黙から生まれてくる言葉を、ひとつ気長に待ってやろうではないか。たといそれが拙いものであったとしても、その子供の口から出てきた言葉について、とっくり親子で吟味し、意見をすり合わせるに越したことはない。まかり間違っても、これを親のモノローグで塗り替えたりせずに、言葉のキャッチボールと云う名の対話(ダイアローグ)を愉しむのだ。それこそが未来を生きる彼らの言葉を育み、思考を育む最良の方策なのではないかと私は常々思うのである。

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