パソコンを覗き込んでいる妻に「なんかちょっと最近、このシリーズ、あなたの思い出に傾いてきてない?」と言われて、ドキリとする土曜日の午後。当初は教室だよりに載せるから書け、と言われて書いていたのが、いつの間にか能動的に書き進めるようになっていたのも、ひとえにちょっとした調子のこき過ぎによるものであったことを了解した私の狼狽ぶりは甚だ無残なもので。書きかけのパソコン画面には『ぼっとん便所にスタッフの先生が車のキーを落として』とか『ある日教室の便所で履いたスリッパが濡れていて』とか、愚にもつかないよしなしごとが羅列されている。ハッと正気にかえって、こんなのを遠いまなざしでうち眺める哀しさといったらありません。
「あなたはお便所の話がしたいの?」「そんなわけでは……」「お母さんたちが読むんだから、もっと公文をやってる子供目線で書いてくれないとさあ」「はあ、子供目線で。」子供目線というムズカシイ注文を付けられてのたうちまわるわが苦悶を、この鬼編集長と化した妻は知っているのだろうか。こんな時に限って「あ、おれ今クモンしてる。」なんてくだらないことを思いつくや、ついふき出してジロリと睨まれるのがオチなのですが、果たして実際のところ私は今現在もバリバリ公文をやってる意識でいることに思い当たったのです。
本業の私塾で弟子を指導する傍ら、妻と母の公文式を二教室掛け持ちして週四回、大量のプリントを採点していると、特に算数などにいたっては途中計算を最初からたどったり、足し算や引き算のプリントを暗算でチェックしていったりと、(自分で言うのもなんですが)かなりのスピードでかつ正確にこなしていかないことには、およそ仕事になりません。面白いのはこの頭の中で計算している最中の、かあっと熱くなってくる感じが、あの頃と全く変わらないというところなのです。
最近ではそんな折に脳内でバッハが鳴り出す、という不思議なスキルさえ習得しましたが、とにもかくにも公文式が能力開発をうたっている点については大いに納得させられます。なので、そこらのAIなんぞにまだまだ私の仕事を明け渡す気はありませんし、生徒諸君に計算で負ける気もないし、やっぱり目の前の子供より「自分が一番公文してる」感が半端ないのです。諸君、ラスボスを倒す気概で、ひとつかかってきたまえ。と結局、大人目線で締めくくっていく体たらくであります。不尽。