かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

作文の時間(2) 記憶がないってホントですか?

 以前、わが私塾の作文教室で子供たちに、最近行ってきたという「遠足の思い出」を一つ選んで書くよう注文したところ、案の定大半の子たちが例のテンプレ的な無味乾燥レポートを提出してきました。そこでもっと、どれか一つのエピソードを膨らまして「コレだ!」と思った瞬間や実感に焦点を絞って書くよう促したところ、スゴいことを言われました。「虎は見たけれど、それ以上、記憶がありません。だから書けません。」私も大いに面食らってしまったわけでしたが、よくよく考えてみればこれもヘンな話で。
 第一に、この子は先ず以て、そもそもあんまり感銘を受けなかったネタを作文に取りあげている点で、必然的に作文の内容が貧弱にならざるを得なくなっているということが分かります。そして第二に「記憶がない」というのも当然、額面通り受け取って良い言葉であるのか、一度考えてみる必要があるでしょう。
 どこかの政治家じゃないのだから、虎を見たけれどそれ以上の記憶がないというのは、やっぱりおかしい話です。その動きであるとか、フォルムであるとか、「虎を見た瞬間なぜかしら全く別のことを考えてしまっていた」とか、頭の中には何かしらの残滓のようなものはあるはずなのです。となると、そこでエラーが起きてしまうのは、それを出力するところにハードルがあると考えるのが妥当でありましょう。
 では、いったい何が彼らのアウトプットを妨げているのでしょうか。私が思うに、それは頭にあることを言葉という形にする手続きが上手くとれないところにあるのです。これは、テンプレ文型に嵌めて文章を作らねばならない、という縛りのなかで作文を書く子には、特に顕著な傾向であるように思います。
 アウトプットを妨げるいま一つの要因である、語彙力の不足という根本的な問題については、また別の機会にふれるとして、「作文をあのように書かねばならぬ」という固定観念のもとで不自由な思いをしている子には、とにかくこちらから積極的に働きかける必要があります。
 例えば、その時の状況や心境を洗いざらいインタビューして、つぶさに語らせてみた後に、それについて「こうも書けるし、こんな風に言うこともできる」ということを示してやる、というのが有効な手段でありましょう。頭にあることをとりあえず言語化させてみて、それを今度は書き言葉に落とし込んでやることで、子供は「なぁんだ、こんなふうに書けばいいのか」と結構気軽に納得してくれるものです。
 寧ろ、そうして表現のレパートリーをデパートみたいに展示して、気に入ったものを取っ替えひっかえ真似させてみることでしか、あのテンプレ文型から彼らを新たに出発させることは難しいのではないでしょうか。
 ですから私の作文教室のワークシートは、いつも「こんなのどうかな?」のオンパレードであり、あの手この手で例文や語り方を提示しては、今日こそ彼らをクスリと笑かしてやろう、の魂胆で挑んでおるわけなのです。

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