長く付き合っている樹でも、ある朝クリアな頭で眺めた途端「あ、この枝いらねぇじゃん」となることがよくある。人間の美的センスなんてものは、ずいぶん流動的で時間と共に移ろったり戻ってきたりするものらしい。
さて、災難であるのは樹の方である。よく言えば美的センス、悪く言えばそん時の気分とか、マイブームやなにかで、せっかく保ってきた枝を落とされてしまうのだから堪ったものではない。
だからこれを落とす方も流石に、いくぶんか申し訳ない気分になるのだが「いや、このままの姿のお前を愛せない!」なんて、世にも恐ろしい理由から強(狂)行手段に出る。盆栽愛好家とはこの点に於いて究極のエゴイストなのである。
さはれ、ここからが盆栽愛好家の面目躍如(?)である。樹の方をそっちのけにして、何やら切り落とした枝を大事そうに抱えて、矯めつ眇めつ。これではモノホンのヘンタイであるが、しばし待たれよ。当人、再び鋏を取り出しまして、その剪定枝をチョキチョキ。
いやいや、これは「わくわくさん」に非ず。切り落としたのみならず、それを四分五裂にする所業の向かうところは、まさかのプランター。怪しげな白い粉を切り口にまぶして土壌に挿してゆく姿のしおらしさよ。
挿し木
お気に入りの樹を剪定していると、ついついやってしまう。家人にはもう鉢を増やすなと言われるけれど、切った枝がしのびなくて、取り敢えず挿してしまう自分がいる。
盆栽は増やすにも金のかからない趣味なのだ、と今日も家人をなだめすかしつつ、そしてまたせっせと枝を挿す。(「盆・歳時記」より引用)
今日も鋏んだ数だけ、鉢が増える。これは最早持続可能どころの騒ぎではない。増やした以上はこれもまた、ひとつの命である。持続可能か否かなのではなくて、持続させねばならぬ、という根っからの倫理が盆栽愛好家の底流には流れているのだ。