かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

作文の時間(4) ウソつきのメソッド

1.ウソをついてもイイですか? 

 私たちは嘘を付いてはいけない、と教えられて育ちます。そりゃそうです。子供たちが学校で嘘のスキルばかり磨いた日には、将来何を信じてよいのだか分からない世の中が到来して、猛烈な社会不安の嵐が吹き荒れることでしょう。

 しかし、と私はあえて申しましょう。作文を書くにあたってウソにばかり配慮して怯えていては、これまた誰にも顧みられることのない国語教育の廃棄物がまた一つ増えるばかりです。だからといって、「道端で百万円拾った。」とか「動物園の虎が隣の檻の兎を捕食しているのを見た!」とか根も葉もない真っ赤な嘘を書けと申しているわけではありませんので悪しからず。

2.ウソが紡ぐステキな物語

 では、作文における「ウソ」の効用とはなんでしょうか。それは言うなればハンバーグのつなぎみたいなものかもしれません。・・・失礼、一周回って表現が抽象的になりました。私が言うところの作文における「ウソ」とは、書かれたものをひとつの「物語」として再構築する語りを指すものです。この語りこそが、点としてある一見無味乾燥な事象と事象とを柔軟につなぎ合わせることで、そこに「物語」を立ち上げるのではないでしょうか。

 たとえば、遠足の作文を書けと言われて、自分は「とにかく疲れた!」ということをメインに書きたい、と思ったとします。つまりは、自分がこんなにも疲れるに至った物語を作ろうと思えば、「前日愉しみすぎて睡眠不足になった」とか「集合場所が分からなくなって思いっきり走った」「すごく焦ったので精神的にも参った!」など、ある一定の方向性を持たせた個々の出来事を効果的に配置したり、特定の部分を強調する語りを行うことで、読み手はちゃんとそこに「物語」をくみ取ってくれます。

3. 語りは騙り

 だれが一個人のその日の活動報告を読みたいと思うでしょうか。事実の単なるレポートではなしに、それが物語として提示されることによって、その作文には多かれ少なかれ普遍的な価値が与えられます。それが物語であるからこそ、人は一個人の書いた作文にゆかしさを抱き、「ちょっと、読んでみようかしら」という気にもなるのです。

 たとえ、少しくらい語りによって事実が自分の認識と違うように見えてきたとしても大丈夫。言葉とはそもそも、今ここにないものを表象するツールであり、それを用いた如何なる語りもまた多かれ少なかれ語り/騙り(ウソ)の要素を孕んでいるのですから、いまさら何を気にする必要がありましょう?

4.「へぇ」よりも「ほぉ」を

 一つの対象について百人が語れば、そこに百通りの物語が出来てしまうように、私たちは自分の言葉を使ってほかの誰にも語れないものを語ればよいのです。作文の内容について言質を取られることなど、まずありません。

 ですから「ウソ」という語りのスパイスをほどよく効かせて、読み手を「へぇ」じゃなくて「ほほぉ」と唸らせる作文が書けたら、それはとても素晴らしいことではありませんか。教員をしていた頃の私が、ちょっとやそっと拙くてあろうと、そんな作文にこそ高評価を与えていたのは言うまでもありません。