自主勉ノートは要らない!
まさに教育現場の悪弊にふさわしい、ヘンテコな名前を付けたものである。宿題として出されるのに「自主勉ノート」、これのどこが自主的勉強なのだか分からない。こんな宿題を無反省に出し続けて、「子供の勉強時間が確保できている」とホンキで思っている教員は、国民にやおらマスクを配り出したどこかの国の大愚物とさして変わらない。
一日一ページ、勉強する内容は何でも構わないから埋めてこい、というのが「自主勉ノート」という宿題である。私も小学校の高学年から中学校まで、毎日この宿題を出されたわけであるが、今思えばなかなかどうして、あれこれムダな時間を費やしたものである。
ムダのあれこれ
よくあるのが、理科や社会の教科書の要点を整理すると称したベラ写しや、写経じみた英単語や漢字の書き取り。あるいは数学の問題を写して解き直すなんてことは、頭を使わない時間が少ない、という点で随分マシな部類であろう。
しかし、よくよく考えてみれば、まず第一に「写す」という時間がもったいない。要点を整理して、それを精確に記憶したいのであれば、単語帳に書くとか、一問一答式の問題集を使用するに越したことはない。書き取りなぞは、もっての外。こんなことをする位なら、随時そこいらのメモ紙に覚えたい漢字やスペルを書いて、覚えたかチェックすることを繰り返した方が効率が良いし、紙と時間のムダも減る。
お分かりのように、小学生や中学生が突然「自主勉ノート」なるものを預けられてすることといったら、せいぜいこんなことなのである。一ページを埋めるという目的で、彼らが繰り出すあの手この手の非効率的手段は、およそ勉強の目的と手段を取り違えさせる危うさを孕んでいる。
(参照. 塾生心得 「効率厨」のすゝめ 前編 - かたつむり学舎のぶろぐ)
「やった感」がもたらす倒錯
半分眠った頭で書き取りをして一ページを埋めた、または自慢の色ペンと多大な時間と労力をかけて要点整理をした、という「やった感」を得ることこそが勉強だ、と錯覚する子は少なくない。ここにおいて勉強は質よりも量を求めるものへと傾斜し、ムダをムダとして顧みられない「頭の悪さ」が野放しにされる倒錯が生じているのである。
「そんなものをするのだったら、百点になった公文のプリントを貼りつけて、その分の時間で読書でもせよ」と私は常々子供達に言っている。「そしてもし、それが原因で先生に叱られるようなことがあったら、必ず私に言うのだ」とも言っている。
katatumurinoblog.hatenablog.com