かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

作文の時間(6) アウトプット賛歌 後編

 私は国語教育における「作文」の異質さを、その徹底したアウトプットの営みに見ています。そして表現するというところで見るならば「作文」は紛れもなく「図工・美術」と同じ領域を共有している、というのはちょっと言い過ぎでしょうか。

 でも、白い原稿用紙を前にした彼らの戸惑いは、白い画用紙を渡された彼らのそれに似ています。自分の言葉を好きなように使って、好きなように何かを表現してよい、と言われた時「よっしゃ、やってやるぞ!」と腕まくりする子はごく一部で、「いやぁ、そう言われましても」と尻込みする子がほとんどであることは重々承知しています。

 大事なのは、ふだんから言葉を使ったアウトプットに慣れておくことなのです。訥々と単語を並べるようにしてしか話せない子や、たくさん喋っているけれど何を言いたいのか分からない子は、まず以て「作文」がまだまだ下手っぴです。そんな人々に必要なものこそが読書であり、誰かが書いた良質な文章表現に親しむことなのだと私は思います。

 これまで作文教室を開いてきた経験からしても、やはりすらすら文章を書く子供たちは、きまって読書の習慣がついています。彼らは自分が読んできた文章の言い回しを、良い意味でパクりながら、言葉を使って何か表現するということを、誰に教わるともなく学んできたのです。

 「学ぶ」の語源は「まねぶ」(真似る)であると言われています。誰もがはじめから文章を易々と書ける訳ではありません。誰かの書いたものをそうして「まねぶ」ことで表現のレパートリーは増えていきます。ですから「作文の技術は一日にして成らず」なのです。

 以上述べてきた通り、読解のインプットが主流の国語教育において、アウトプットの領域を受け持つ「作文」はたいへん貴重な存在なのです。言葉という記号を正しく読み取る技術と、言葉を使って誰かに何かを伝える技術。その両輪なくして、国語という教科は成り立たないと言って良いでしょう。