かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

ブカツ哀詩 「この辺」の事情

 小さいうちからウチの教室に通い、せっせと研鑽を積んで、毎日決まった分量の宿題をコンスタントにこなしていた子が、中学校へ入学したのを境に明らかな変調を来してくる。

 今まで毎日欠かすことのなかった宿題の量が目減りするくらいならまだしも、ひどい時には教室へ来た時くらいしか勉強するということがなくなる。これまで築き上げてきた学習習慣が、みるも無惨に崩れてゆく有様を見せられるのは、非常に遣りきれないものがある。

 では、どうして今まで通りでいられなくなるのか。寧ろ小学校の頃の方が、君はたいへん熱心に勉強に打ち込んでいたではないか、と尋ねると、返ってくる応えは決まっている。

 「ブカツが忙しくって・・・」へとへとで帰って来た後は、教科の宿題や例の「自主勉ノート」を書くので精一杯、あとはベットにバタンキューというのが、ブカツに打ち込む彼らの生活スタイルなのだ。

 だから学校の宿題よりほかに、プラスαの学習が付け入るスキなどあるはずもなく、一週間を通してブカツに追われ、土日も練習試合に駆り出される。これがわが宮城県の片田舎「この辺」の当たり前である。

 さらに「この辺」のブカツは、スポーツ少年団と不可分に癒着しているため、ブカツの時間外でさらに二時間、三時間と彼らは練習に練習を重ねる。そんなものはトンだオーバーワーク以外の何ものでもなく、いたずらに身体を苛め、いたずらに基礎学力を定着させるための時間を削ぐものに外ならない。

 しかし、それが最早当たり前過ぎているから、親たちも文句の一つも言わずに「仕方がないこと」だと割り切っている。自分の子供がブカツに忙殺されて、まとまった勉強時間を取れないのも「仕方がないこと」で、結局ウチの教室に通えなくなるのも「仕方がないこと」なのだ。

 基礎学力もない、読書もしない、将来のことを考えもしない近視眼的なブカツ偏愛主義に、私はとことん厭気がさしている。だから私は、遅ればせながら声をあげることにした次第なのである。この地域の未来を担う彼らのために、そして一日三千円の部活手当で駆り出される、かつての私の同業者たちのために。