かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆・再考 ありそうでなさそうな

 ドラえもんのスモールライトを使って、そこらへんに生えている樹をみるみる小さくして鉢に植えたとしたら、果たしてそれは完成された盆栽になるでしょうか。

 確かに、盆栽は自然を模倣して作る芸術作品です。だったら自然の樹をそのまま模倣すれば、完璧なんじゃないか? と思ってしまうのは無理もないことでしょう。しかし、多分それではケッコー異様な感じの一鉢が出来上がるのではないか、と私は思うのです。

 以前「シゼンな感じがいいのだ!」と、生えたなりの、全くと言って良いほど自然状態の樹を、盆景(庭園)風に鉢植えした作品を飾った人がありました。それはアメリカンドックを地面にぶっさした風情で、とてもではないけれどお世辞にも「盆栽」と呼べる代物ではありませんでした。

 「シゼンな感じ」とは言っても、生えたなりの状態では、まず以て幹と枝振りのバランスを取ることが難しいのです。その上、必要な剪定を怠ると、葉っぱがついている枝が外側の輪郭線ばかりに集中するため、懐がガラガラで実にさみしい感じの樹になるのは必定なのです。

 この逆説を通して知れるのは、実に盆栽というものが徹底的に人為を尽くして作られるということではないでしょうか。

 つまるところ、自然の模倣とは自然そのものを借りてくることではなくて、あくまで人が人の手で「自然らしきもの」をほとんど一から表現する営みを指すものに外ならないのです。盆栽の技術とは、まさに誰かが見て「ありそうだ」と直感させる樹を作る技術であり、もちろんそんな樹は自然界に存在しないのです。

 ありそうで、なさそうな樹には、たいへんな情報量が詰め込まれています。なにせそれは、ホントなら存在しないはずの枝と姿形の詰め合わせなのですから。盆栽の魔力は、そんな一鉢を見つめる脳みそが、情報過多でちょっと眩いてしまうところに潜んでいるのです。