お手紙に書いたでしょう? ということを質問されるのは、教育現場のあるあるなのでしょうか。
こんな風なメールが来ると、妻はきまって電話で返答するので、ある日そのわけを尋ねたところ、「だって、メールで返しても伝わらないから」とのこと。
なるほど、ここには一筋縄ではいかない問題があるように思います。
こうした親御さんは、お手紙やメールを読まないのではなくて、読めないのです。
妻は小学校の教員をしていた頃から、この手法を実践しているそうで。やはりクラスに数名は決まって、この手の親御さんがあったそうな。
今さら、そんな親御さんに「公文をしませんか」なんて言ってもはじまらないのだから、せめて教室に通わせてくれる子供には、最低限のスペックを搭載させてやりたいわけなのです。
せめて大事な通知くらいは読んで理解できるように、せめて伝えるべき大事な用件くらいは文章にしたためられるように。
あとはこれに、日常レベルの計算を加えれば、これぞまさしく現代版「読み・書き・そろばん」です。
高等教育を受けるにせよ、受けないにせよ、教育の最優先課題は、江戸の昔から変わっていないし、変わってはいけないのです。
一応、大学と名のつくところを出ているにも拘わらず、ロクな文章も書けないし、読めない人があるというのも希有なこと。
国際競争力だか何だか知らないけれど、日本語もロクに使いこなせぬ小学生に、エイゴを習わせるというのも、私はどうにも承服しかねる。
教育の第一義は、日常生活を支障なく送ることができる能力を涵養することにあるはずです。「読み・書き・そろばん」がきちんと出来て、それでもっと勉強がしたいと思ったら、英語なり高等教育へとコマを進めればよいのです。
通知が読めない、文章が書けない、銭勘定もままならないようでは、これからの世の中、何に欺され翻弄されるか、分かったものではありません。
いかな悪意や、トラップがスマートフォン上に仕掛けられることやら、私は全く門外漢であるから詳しいことは分かりませんが、近年言われているメディアリテラシーなるものだって、結局は「読み・書き・そろばん」を言い換えたものに外なりません。
だから私は今日も彼らに、生きるための術を学ばせようとしている次第なのです。