英語を勉強してよかったと思うのは、字幕で洋画を愉しむ時。
アル・パチーノや、オードリーに日本語をぺらぺら喋られると、どうにも雰囲気が出なくて困る。
だから洋画は必ず字幕で観て、その台詞回しと日本語訳の差異を愉しみつつ、名優の声に聞き惚れるというわけで。
英語を勉強して何になるのか、なんて聞かれたら私はとりあえず「映画が愉しめる」ということにしている。
でもそれが、実のところ外国語を学習する目的の本質を突いていることも確か。文化的な差異を愉しむことが、翻って自分の国の文化を逆照射することになるのだ。
ことわざの言い回し然り、修飾語のレパートリーや文法然り、言葉とはいまだ〈言葉にならない〉ものを、何とか表現しようとした先人達の遺産に外ならない。
だから、英語を勉強するということは、言葉という形で蓄積された文化の厚みを知る、ひとつの「たしなみ」なのかも知れない。
受験のために、国際競争力のために・・・そんな文言はもう聞き飽きた。それは誰かを蹴落とすためのスローガンであって、他我の文化発展に寄与するものではない。
たしなみとしての英語。私のおじいさんはジョン・ウェインを観るために英語を覚えた。カナダへ出かけるために、辞書を一冊食べた。
こんな風に勉強とは、いつだって自発的に始まるものである。そして、英語学習の核になければならないものは、いつだって海の向こうの文化に対する限りない「ゆかしさ」でなければいけない。