さっきまで国語のテストをしていたKちゃんが、鉛筆を置いて両方の指でほっぺをむぎゅーっとしている。
その傍らで妻が「ホラ、おじいさんが取られたのは?」とニコニコしながら聞き直すと、Kちゃんはタコみたくすぼまった口で「ほっぺ、ほっぺ!」と哀切な声を出している。
面白いから自分の仕事をほっぽらかして野次馬に出る。
なるほど、テストでバツがついたところには、『ほっぺ』と書いてある。確かにそうだ。鬼に取られたおじいさんの瘤は、彼の『ほっぺ』に付いていた。
意味的には大正解なのだけれど、国語的にはNGなのだ。
筆者によって表現された言葉を使って、設問に答えるというのが、国語という論理トレーニングのルールである。
本文に「ほお」と書いてある以上、『ほっぺ』じゃダメなのだ。だって、筆者はもしかすると、「ほお」という言葉をチョイスせねば已まれぬ気持ちがあったのやも知れないのだから。
私も妻もこうした「テクスト主義」に立っているものだから、いよいよ『ほっぺ』は許容できない。
だけれど、その声があんまり哀切なものだから、ついつい助け船。
「ほっぺ、じゃなくて、何て書いてある?」
「えー。わかんなぁーい。」
「わかんなくないから、ほら、」
「うーん、えーと、ほっ、『ほお』?」
ここに於いてKちゃんは、また一つ新しい表現に出会ったわけである。だから次に彼女が、頬というものを指し示したくなったら、『ほっぺ』か『ほお』か、実にどうでもよいけれど悩ましい言葉のチョイスを迫られるはず(?)である。
それは言葉という豊穣な森の入り口に、ひとりの女の子がさしかかったことの証左でもあるのだ。