かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

軍隊学校之記(11) さらば、友よ

 喩うるならばお相撲の番付。わが軍隊学校は、まさに番付社会でありました。

 成績によって、上中下と三つにクラスが分かれていて、クラスのレベルによって授業の内容も全く違いました。

 また、それぞれ抱えている小テストや課題も異なるため、休み時間に別なクラスの人間と交流することもなく、私などは他のクラスの同級生について、ほとんど知るところなく卒業してしまった次第です。

 それこそどこかの予備校みたいに、たいへん合理的なシステムではありましたが、その分悲喜交々の出会いと別れもありました。

 学期の終わりに「クラス分け表」というものがA3で配布されて、三十名ぐらいの区切りで黒い線が引かれていました。お分かりのように、この線こそがクラスの境目であり、この線をめぐって出会いと別れが繰り返されたのであります。

 上位数名の学業奨学生である人々は、大関的なポジションにあるので、よもや上クラスから落ちることは許されません。一方、もっとも動きがあったのは、上と中のクラス間で、それこそ下克上的に上がってくる人間もいれば、幕の内に定着できずに十両に下がってしまう級友もいました。

 仲の良かった友人が、学期終わりが近づくにつれて「俺は、もう今回こそはダメかも知れない」と、寂しい笑みをもらしたのを、よく覚えています。そんな彼は、終業式の日に自分の机とともに隣のクラスへと去り、あまり面識のない同級生が机とともに教室へ入ってくる。

 出た人間も入ってきた人間も、それこそ猛烈なアウェー感だったことだろうと思います。そんな人々の姿を見ながら、誰しもが明日は我が身という気持ちを新たにしていたのは、言うまでもありません。

 さはれ、そんな緊張感というかプレッシャーが「勉強しないと大変なことになる」という気分に火を点けたのは確かだったようです。

 この辺のぬるま湯みたいな普通高校では考えられない危機意識を植え付けられつつ、「勉強せざるを得ない」環境に放り込まれるのは、たいへんにツラいことではありますが、ちゃんと学問が出来るレベルの大学に行くためには、この位のことを避けては通れないことを身をもって知った次第です。

 そのようなことを、仙台から一時間離れたこの辺の人々がほとんど承知していないことは、偏差値五十のラインに線を引いたら一校しか残らないこの辺の事情とたいへんよくリンクしていると言えるでしょう。

 クラス分け表のラインを恨めしげに見つめて、泣く泣く去って行った彼らの悔しさを、いったいどれだけの高校生が理解できることやら。