かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

私と公文式(20) 迎えを待ちながら

 今日の学習を終えた子供が、湯上がりみたいな顔をして窓辺に立ち尽くしています。というか、寧ろ窓辺に張り付かんばかりにして、一心に戸外を見つめる姿を目にすると、さっきまでのナマイキボーイもたちまち健気に見えてくるから不思議なものです。

 大事な子や孫を迎えに来ないはずがなかろうに、何をそんなにしてまで、とオトナなら考えるでしょうが、やはり習い事の帰りというものは、お家のオトナの顔を見ていち早くホッとしたいものなのかも知れません。

 いくら慣れているとは言え、教室という場所は、彼らにとって「勉強せねばならないところ」であり、学年の違う先輩や後輩とも肩を並べることになる、学校とはひと味違った社会的な場所に外なりません。

 ですから、緊張していないように見えても、少なからず気は張っている。そしてオトナの私だって、「今日はパンクするんじゃなかろうか」とか「アイツが予想外に苦戦しているぞ」とか・・・当時とはまた別の意味で緊張しているわけです。

 かつては私も迎えを待ちながら、今日の学習の余熱を冷ましていたものでした。これで課題をこなすという緊張から解放されたし、あとは一刻も早くウチの車に乗り込んで、ウチへ帰って茶の間でゲームをしてホッとしたい。

 と、切に願っていたその時、おじいさんの白い車が砂利の道を滑るように入って来たので、「やった、グットタイミング!」とやおら公文バック抱えて立ち上がったその時でした。

 ゴソッ、という鈍い音がして、おじいさんの車が低くバウンドし、一段地面へめり込むかに見えた途端、空転した後輪が駐車場の砂利を平屋の屋根近くまで蹴り上げたではありませんか。

 ウソだろう、これは悪い夢だ。という気分を生まれて初めて味わった瞬間でした。何でも午前中まで水道管の工事をしていたとかで、掘った穴を埋めたはよいものの、固め方が甘くて、自力では脱出できない程にタイヤがめり込んでしまったのだそうな。

 幸いまだ近くで工事が続いており、おじいさんが談判に行くと、それが教え子だったとかで、めちゃくちゃ謝られながら引っ張ってもらい、何とか事なきを得たのでしたが、その救出活動の間中は教室の生徒が自分の公文をほっぽらかして見に来るものだから、恥ずかしいことこの上なく、まさに穴があったら入りたい気分でありました。

 さて、そこの窓辺でお迎えを待つ君たち、お家に帰るまで、何が起こるか分かりませんぞ、ゆめゆめ気を抜かれぬように。