かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

定点観測(33) うさ子の捜し物

 開口一番、天を指さして「落ちてきたの」と言うから、何か神がかったことか、ラピュタ的なことかと当惑せざるを得ない。

 まだ空は下しっぱなしの腹みたいに、どこかでごろごろ鳴っているけれど、窓の外にはようやく安らいだ夏の夕暮れが来ている。

 北斎が描いた大川端の雨が、きのうも今日も降りしきる。

 血相を変えた入道雲が、ドンガラと物騒なサウンドを轟かせる中、ギャーとか、ピーとか言い騒ぎながら子供達が教室前の通りを馳せてくる。不穏な大気の中を、何とか災難に遭うこともなく教室へたどり着いた子供たちの顔には、「ふぅ、助かったぜ」と書いてある。

 それがやっと落ち着いた夕まぐれ、うさ子がいつものようにやってくる。「こーんにーちわー!」いや、最早「こんばんは」な時間なのであるが、夏至を過ぎたばかりの太陽はまだ、何事もなかったかのように照っている。

 今日はすんなりと入ってきたうさ子である。ダメダメな日ともなると、玄関口で一悶着してからのご登場なのであるが、今日はすたすたひとりで妻のところまで行って、しきりと何事かを訴えている様子。

 「落ちてきたの」「ああ、そうだね。すごかったねぇ」という向こうの会話を途切れとぎれに聞いていたが、妻との話を終えたうさ子が、今度は私のところまでやってくるではないか。

 すごーく、物言いたげな顔をして、仮分数を帯分数に直すレクチャーをしている真っ最中の私を見つめるうさ子の視線が、ビリビリと感じられる。さはれ、私がこうして取り込み中であることを、よくぞ理解して待っているものである。

 どれ、ひとつ話を聞いてあげようかしらと顔を上げる。うさ子、嬉々として話し出すことには、 

 「あのねぇ、さっき、ゴロゴロ、落ちてきたの」「ふむ。猛烈な雷であったね。」「あっちに、なにか落ちてるよ。」「そうだね。あっちに落ちたね。」「いま、落ちてきたのあっちにあるよ。」「え?」

 お分かりいただけただろうか。私もちょっと考えて、ようやく気がついたのであるが、何と彼女は、あの雷鳴とともに「なにか」が地上の、しかもあっちの方に落っこちてきて、転がっているはずなのだ、ということを言っていたのである。

 なるほど、それはそれでもっともな世界認識の仕方ではないか。うさ子の捜し物は、なかなかどうして容易には見つからないだろうけれど、今日彼女はピカッと光って落ちかかる物体「なにか」を仮定したのである。

 そしてそれはいつでも、われわれ人類が科学という領域を開拓する知的営みの、第一歩ではなかったか。