かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(20) 言葉ドロボーを捕まえろ 後篇

 言葉とは、自ら必要に駆られて使うようにならなくては、自由闊達に使いこなすことが出来ません。そして、この言葉がままならなくては、頭の中で自分でものを考えることも難しくなります。

 ですから、「よく喋る親」の子供は、親によってよく喋ってもらっているため、別段自分から率先してものを考えなくてもよいポジションに居座ることになるわけなのです。そんな子供が親に対して無批判的であるのは当然のことと言えましょう。

 自分はただ、この親の隣にお人形然と座っておれば、何だかんだで自分の都合よく事が運ぶし、必要なものは黙っていても与えられる。子供にとってこんなにラクなことはありませんが、それは一つも将来の足しにならなければ、人間的成長に寄与するものでもありません。

 私がこれまで見てきた「モンスターペアレント」ご一行様ときたら、みながらこんな感じ。自分で意思決定したことのない思考停止チルドレンと、子供にのびのびさせてやっていると信じて疑わないけれど、実のところ自分のエゴ百パーセントで子供を洗脳している教祖的な親。

 こんなタチの悪い宗教みたいな構図を作り出すもととなっているのが、先に触れました「奪われた言葉」なのではないかと思うわけです。

 モンペであろうとなかろうと、子供が喋り出しそうな、まさに言葉が生まれようとするその瞬間に「つまり、あなたが言いたいのはこんなことでしょう?」とやってしまうのが、いみじくギルティなのです。これは子供が思考することを、親が率先して否定する営みに外なりません。

 まだ語彙数も少なく、言い回しも覚束ない子供達が、それこそ無いところを何とか掻き集めて、自分の意思や要望を言語化しようとする試みを頓挫させる親のインターセプト(横取り行為)は、教育の逆コースと言わざるを得ないのです。

 先回りをしているつもりなのでしょうが、そこで代言される親の弁は、どこまでも親のエゴイズムであって、子供という尊重すべき一個人の言葉ではないのです。

 今、世の中ではようやく「自分の頭で考える」子供の育成に乗り出したようですが、賢い親たちはもうとっくの昔から、自分の言葉(頭)で考える子供を育てているわけです。

 今からでも遅くはありません。子供からドロボーしてしまった言葉は、よろしく親の沈黙とあたたかい見守りによって、子供に返還されるべきなのです。