かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

定点観測(34) カレンダー少年と私

 カレンダー少年は、今よりもっともっと幼少のみぎり、カレンダーによって数を知り、そこにある一定の規則性があることを発見したと言われている。

 別に、これは誰かノーベル賞を取った人間の伝記でもなんでもないけれど、私の前に腰掛けたこの少年の数的感覚には、常人の及ばないところがある。

 提示された数に、何らかの関係性、法則性を見いだしていくのが、数学の基本的なスタンスであるとすれば、この少年は齢七歳にして既に資質十分。数学についてさしたる興味も示さずに義務教育を終えていく人々がごまんとある中で、これほど数学を愉しんでいる小学一年生があるというのは、心地よい驚きである。

 カレンダー少年の学習には特徴がある。初めての計算を学ぶ時、ひよって弱腰になって自分から「分からない人」になりにいく人々があるなかで、彼はひと味もふた味も違う。

 何やらぶつぶつ言いながら、例題をしばらく眺めて「なんで、ここの数が変わってるの?」とか「なんでここに書くの?」「なんでだろう?」とか言っているうちに、「なんだ、ここと足してるんだ。」「じゃあ、こっちも同じじゃん。」「だったら、ここはこうなるよね。」

 と一人で計算の法則性をつかんで、勝手にやっているものだから、これほどラクな生徒はない。彼が「なんで? なんで?」とやっているうちは、私も「なんでだろうねぇ?」とニヤニヤしている。言ってみれば「泳がせて」みるのである。

 これは一見、教育関係者として職務の怠慢にすら見えるやも知れないけれど、実際のところこれが教育の勘どころなのだ。教えるのは容易く、学ばせるのはムズカシイ。そして学習効果で言えば、絶対に後者の方に軍配が上がるのである。

 そうやってカレンダー少年は自分から「学んで」いく。時に推論を誤って、突飛な計算を始めた時だけ、簡潔に解き方を示してやる。彼の育成レシピは極めて簡潔であり、簡潔であればこそ、つい「教えたがり」な人間には任せられぬのである。

 カレンダーによって数というお友達を得た彼は、今日も無邪気に数と戯れている。時に、導き出した数に何らかの規則性を発見しては、嬉々としてそれを私に報告してくれる。

 遊びの領分。そんな言葉がふさわしい。