この間の読書の話で、ちょうど「消化」についてふれたので、忘れないうちに補足をしておくことにします。
本、あるいは大学の授業で皆さんは「理論」や「思想」というものを学び、必要に応じてそれを吸収することでしょう。
精神分析、民俗学、テクスト論、バタイユ、デリダ、フーコー、ドゥルーズ、中沢新一、鷲田清一、内田樹・・・私も大学時代から今に至るまで、あっちこっちの先哲のものした「理論」や「思想」にふれたりカブレたりを繰り返してきたものです。
およそ個々の「理論」とか「思想」は、世界の見方や捉え方の一つ、と考えることができます。いまわれわれが生きている世界を、どのように切り取って、どのように解釈して、どのようなことを考える足がかりとしていくのか。これこそが学問の向かうところなのだと、私は思うのです。
これから皆さんは大学で学問をしながら、あるいは旺盛な読書を通して、様々な理論や思想にふれることでしょう。それによって、今まで自分が当たり前だと思っていた認識が一八〇度変わったり、「マルクスしか勝たん」的な感じで思いっきりかぶれることもあるでしょう。
しかし、これは何もおかしいことではないのです。寧ろ、そうしたものを吸収して自分の糧にするためには、一度どっぷりハマって、ちょっぴり痛い目にあった方がよっぽど身のためなのかもしれません。
世の中には「人のフンドシで相撲を取る」不逞の輩があります。それはどういうことかと言えば、かじった知識や外からゲットした思想をさも自分のもののように吹聴し、それによって満足しているタイプの不勉強家が少なからず存在するということです。
以前私は国分寺の呑み屋において、偶然再会したこの手の後輩に絡まれ、しごくうんざりさせられた上に愉しい宴をオシャカにされて以来、この点にしつこく警鐘をならすようになった次第なのです。長くなるので今日はここまで!
(因みにその後輩はベロベロに酔っ払っていたので、お勘定をお任せしてズラかった、というお話は聞かなかったことにして、諸君は絶対にマネしないように!)