コロナの暴風が吹き荒れる中、今年も何とか「夏の作文教室」が始まりました。
去年に引き続いての参加という子もあれば、ただならぬ意気込みでやってきた期待の新人もあり、さてこの子はどんな作文を書くのかしらと、やっているこっちの方がむしろ楽しみに思っているふしがあります。
なにせ作文はいかに堅苦しく書こうとも、必ずそこに書き手の人柄が出るというもの。内容のみにあらず、文章の切り方や対象の書き方にも、せっかちだったり、几帳面だったり・・・性格が如実に表れるものです。
第一回目となった前回は自由作文。『人間は自由の刑に処せられている』と誰かが言ったように、ある程度年端がいくと人は「自由に書け!」という言葉に尻込みしてしまうようになるのかもしれません。でも、作文用紙を前にした子供たちは、そんなオトナの心配を余所に、ワークシートへさっさとネタ出しをして「もう書いていいですか?」と意気込み十分。
教室初回のねらいは「書く前に決める」でしたから、その黒々とネタで埋められたワークシートを見るだけでひとまず目標達成。ただネタを上げるだけでなくて、それを厳選して深める作業まで終えることが出来ていれば、最早作文は完成したも同然です。
私もまたガリガリ原稿に向かう彼らと一緒に『私と公文式』の草稿をものそうとしていたわけですが、半分も書き上げないうちに「出来ました!」というから驚いた次第で。
見ればちゃあんとオチが付いているし、新人君にいたってはオチを引き立たせるために「先生、最初のところに付け足したい部分があるんですけど、マスじゃない所に書いてもいいですか?」なんて、なかなか見所があることを言うではありませんか。
作文は大いにヨゴシテ書くものです。だからこそ清書という作業があるわけで、下書きなんてものは「トル」とか赤線と書き込みで賑やかになってこそ、下書きたる存在意義があるのです。
「大いにやりたまえ。どんどん書き足して、ふくらましてごらんなさい。」と私も面白くなって、ちょいと入れ知恵することにも余念がありません。
その作文のキーワードとなる「いやな感じ」の「いや」をホワイトボードに取りあげて、「イヤ」「嫌」「厭」と列記してみたところ、私が何か申す前に「ああ!」と得心して早速カタカナの「イヤ」を採用した模様。
その後、どうして「イヤ」にしたのか尋ねてみたところ、「何かこっちの方が、その時の感じに合ってる気がしたので」とのこと。
「作文」という作品世界の雰囲気は、言葉のチョイス、そして、こうした表記ひとつでいかようにも変わってくるのです。特選した素材もいらなければ、お金もかからない。言葉と紙と鉛筆で一から好きなように世界を作る。これこそが「作文」の醍醐味であると私は思うのです。
さて、そろそろ第二回目の教室の準備をせねばなりますまい。