かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

些事放談「いらない屈折」

 「先生、ボクきのうね、みんなでバーベキューしたよ!」「おととい家族とプールに行った!」

 問わず語りに話してくれる子供達の報告を聞く度、複雑な思いにかられている自分があります。

 「そいつはよかったな! で、何を食べた?」とか「いいなぁ、プールでなにして遊んできたの?」という返答をしながらも、心のどこかでささくれのように「『みんな』とは?」「ホントに大丈夫なのか?」「まさか県外じゃないよな?」という暗い疑念が頭をもたげるのです。

 いつから私はこんな、厭な屈折をするようになったのかしら、と感じるにつけ、無邪気に語ってくれる彼らの報告を素直に喜んでやれぬ自分と、昨今の情勢を呪わしく思うばかりです。

 教室は実際のところ綱渡りのようなもので、最近は週に一人は誰かしらが「濃厚接触者」でお休みという状況が続いています。

 私と妻もここ半年は生活圏を一歩も出ずに過ごしたり、クソ暑い日中には教室の窓を全開にしては、マスクの子供達に酷なことをせねばなりません。コロナ前の世界から、人間が一人タイムスリップしてきたら、およそ正気の沙汰とは思えないことでありましょう。

 いつまでこんな事が続くのか。第七波まできて未だに検査キットや、検査態勢に保健所の機能が追いつかないというのは、いったいどういうことでしょうか。これぞまさしく「その場しのぎ」の政策しかしてこなかった政府の近視眼的な態度を反映するものに外なりません。

 目先の事しか考えることが出来ない政府は、「布マスク」を数枚配れば国民の不安が消えてなくなる! と思い込む馬鹿な政治家の「国葬」なんぞに躍起になっています。そんな論議をやっている場合でないことは、状況を丁寧に説明すれば子供にだって分かるというもの。

 目の前の火事を消さずに、燃え上がるだけ燃やしておいて、いったい何が守れるというのでしょうか。何のために有権者はそのような人々を選択したというのでしょうか。

 「旅行に行ってきたんだ!」「そりゃよかった!」とストレートにやりとりがしたい。罪のない彼らの行動に逐一過敏に反応する、いやらしい心の持ちようにはうんざり。「いらない屈折」はもういらないのです。