かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

作文の時間(12) 無段落ボーイのエチュード

 作文教室を受講している子達の中で、毎年決まって現れるタイプに「無段落ボーイ&ガール」というのがあります。

 もちろんわざとやっているわけではなくて、本人はいたって大真面目。お話の流れにのって、最後のオチまでたゆむことなく前進を続け、ふと振り向けば全部で一段落。

 「ふう、書き上げてやったぜ」的な顔して、まさに「ひと段落」ついた風ではありますが、早速私も加わって段落探しの旅がはじまります。

 もと来た道を辿って話の継ぎ目を探っていくと、やはり「ここは流石に、場面変わってるよね」という箇所や、「ここからが読ませどころだから、一発改行しておいた方がいいんじゃないか?」というところが出てきます。

 小学校の授業では、比較的早い時期から形式段落こそふらせることはあっても、それぞれの段落と段落の関係を考察する作業は、せいぜい高学年や中学になってからのこと。文章の構成つまりは、文章を構造的に理解するというのは結構メタ的で高度な作業であるため、おそらく中学生でもきちんと理解をしている生徒は限られます。

 ふだんから段落そのものを意識する機会の少ない彼らに、如何にして「段落」の機能を分かりやすく落とし込むことができるのか。

 先に出てきたように、場面の転換や総括のところで、と教えるのは簡単ですが、それでは何となく片手落ちな気がしないでもありません。

 要は一つの段落が「ここは○○の話をしていて」と、説明できるような意味内容を持たないことには、段落を分ける必然性がないのです。となると、各段落は一つのミニマムなストーリーとともに小さく完結してあるべきだと私は思うのです。

 このミニマムな物語の集合こそが作品であり、それは各パーツとしての段落が有機的に結合しあうことによって構成されていてこそ、全体的な意味を分泌するのです。それによって、各段落の読み替えが新たな意味を分泌し、それがまた新たな作品の解釈を生み出す・・・。

 と、つい抽象的な考察に立ち入ってしまったわけですが、まず以て無段落ボーイに処方すべきクスリはとりあえず「ひと段落にひとつのお話」。それがどんな話だかまとまらなければ、それは「段落=お話」としてまだ不十分ということであり、「これは○○だということを書いた」と書き手が説明できればそれで一応段落は成立しているのであります。

 え、何ですと? だったらお前さんの「段落」はどうなんだ? ですって?

 そこンところは、読者諸氏の慧眼にお任せいたしたく存じます。