かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

国語の時間「わりきれない気持ち」

 「楽しみでもあるけれど、不安でもある。」「表面的には嬉しいのだけど、心のどこかに哀しみを覚えている自分もいる。」などなど。

 こんな風に、人の気持ちというものは時に複雑な様相を呈するものです。もちろんそれは小説の登場人物も同じことであり、ためらいや葛藤を抱えた彼らの心情について説明を求めることは、問題制作者にとっての大好物だったりします。

 小学校の時のように「うれしい気持ち」とか「悲しい気持ち」なんて答えて○がもらえるのだったらよいのですが、そんなに分かりやすい「わりきれる気持ち」なんて、むしろ滅多にあるものではないし、それこそ問題にもなりません。

 読解をする際に、あるいは自分の胸に手をあてて心の声を聞いてみる時に大事なのは、その奥底にわだかまってこんがらがっている「わりきれない気持ち」を読み解いてやることなのです。

 環境的、社会的な立場に起因するもの、人間関係によってもたらされたもの、個人的な思想や意思に由来するもの・・・。一個の人間をとりまく、あらゆる要素が絡み合ってその人物の「気持ち」を構成しているのです。

 だから何か一つの要素ばかりを取りあげて他を顧みないのでは、心情理解として片手落ちになってしまうわけです。

 「Aの要素」があれば「Bの要素」もあるかもしれません。それらを文章中から確たる証拠とともに読み取ってこそ、彼や彼女がとらわれている「わりきれない気持ち」はようやく理解されるものなのです。

 そしてこれは小説に限った話ではありません。何とかは小説より奇なり、なんて言葉があるように、現実の世界に生きる私たちもまた「わりきれない気持ち」とうまく付き合っていかなければなりません。

 どうしてふさぎこんでいるのか、自分でもよく分からない夕べは、ざわついている胸に手を当てて、心のひだひだへ分け入ってみるにしくはありません。そこに発見される複数の要因を、きちんと対象化して可能であれば言語化することによって、われわれははじめて「わりきれない気持ち」を受け容れられるのやも知れません。

 「わりきれる気持ち」と「わりきれない気持ち」。どっちが好もしいかと尋ねられたら、私は後者を選びます。え? なぜかって? そりゃあ人間くさくて安心するからですよ。