かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 正しく選ぶ為に 後編

 前回私は「義務教育」の意義を、一個人が主体的に「選択」するためのスキルを涵養するところにあると述べました。情報を読み解くリテラシー能力、そして社会と人と適切に関わっていく能力こそが、私たちに正しく判断し、そして「選択」するための足がかりを与えてくれるのだと私は思うのです。

 私のところへ来てくれている塾生諸君については、特に心配するところではないのですが、私は常々この主体的に「選択」することを放棄したかのような人々のふるまいを、空恐ろしく思うことがあります。

 例えばこの間取りあげた進路選択の話。「皆が高校に行くのだから自分も」「親によって自動的に選ばされた」・・・なんて話を誰しも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。これは実に「無責任」な発言であり、こんな調子ではいざ社会に出たところで、全て「自分とはカンケーねぇし」とうそぶいて、貴重な人生を棒に振りかねません。

 「何を進学ごときで選択云々…」と言う輩もあるやも知れませんが、それは自分一個人の進路「選択」に限った話ではないのです。

 その最たる例が、民主主義の象徴とも言うべき選挙というやつであります。近年欧州で勢力を伸ばしつつあるポピュリズムの波は、人々が正常に思考し「選択」する営みに揺さぶりをかけつつあります。

 誰かが焚き付けた一時の熱狂に駆られたり、国民感情を煽る卑しい弁舌によって、良識ある判断や「選択」はいとも簡単に攪乱され、目を覆いたくなるような惨劇が繰り返されてきたことは歴史が教えるところです。

 時流にながされることなく論理的に、そして来たるべき将来の展望を見据えた「選択」を行うためには、やはりしかるべき「義務教育」の成果が必要不可欠なのです。されど、それだけではどうにも頼みがいがないのが、如何ともしがたい今の日本の現状なのであります。

 でも、そこで踏ん張らなければならないのが、曲がりなりにも「学問」と呼ばれるものを修めた人間なのではないか、と私は思うのです。再三述べてきたように、学問とは「ものの見方」と呼べるものの総体です。

 「あの人間はこのように述べているけれど、それは明らかに偏った見方であり、こんな風にも、あんな風にも解釈が可能ではないか」と、ヘンな奴が出てきた時に真っ向から論理的掣肘を加えられる人間が、長屋の大家さんみたいにして(?)町中に点在しておれば、ファシストやらポピュリズム政治家も真っ青、ってなわけなのです。

 要は、世の中の人々がヘンな気を起こしてヤバくなった時に「ちょっとあんた方、しかじかの理由でちょっとオカシイよ」と言ってやれる人間(知識人)が一定数存在しないことには、危なくて仕方がないし、それが寧ろ学問をした人間の仕事なのではないでしょうか。

 これから学問を修める諸君には、よろしくこの点を弁えておいてほしいのです。熱狂の裏側を、甘い言葉の背後を見据え、人々が喜び勇んで投げだそうとする「選択」を彼らにきちんと返上してやる。諸君にはきっとそんな人間になってほしい。そう私は願ってやまないのです。