かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(8)「オレ達」の外側

 そこに外部はありますか?

 どうです、なかなかキャッチーな入りでしょう。はい、そこの君、どこかの金貸しのコマーシャルをパクってるとか言わないように。

 私は今日は結構真面目な話をしようとしているのです。っと、そこの君は「真面目」と聞いた途端に帰り支度をはじめた様子だけれど、少しばかり待たれよ。私は弟子である君たちと、そうでない方々とに、大事な話をしようとしているのであります。

 「われわれ」という言葉を使う時、「私たち」はそこに多かれ少なかれ、一つの共同体を想定しています。同じクラスであったり、同じ趣味や思想を共有する人たちであったり、同じ国籍であったり、家族であったり・・・共同体はどこにでも存在し、その数だけ「われわれ」があると言えます。

 それは一向に悪いことではありません。「われわれ」という意識を持つだけで、人はそこに自分の帰属意識、つまりはひとつの居場所を確認し、それによって「ボクはここにいていいんだ」という、かの有名な安らぎを得ることだって出来るでしょう。

 しかし何事も度が過ぎると、ロクなことはありませぬ。「われわれ」意識が強すぎると、もちろん心理的な紐帯はどんどん強化され「オレ達はワンチームだ!」ってな具合になる。それの何が悪いんだ、とツッコまれる方もあるやも知れませんが、ここで留意せねばならぬのが「オレ達」「われわれ」の外側なのです。

 ごく親しい仲間同士でつるんでいる時の愉しさは、だれだって好もしい思い出としてあることでしょう。

 では、この時の経験を思い出してみてください。仲間同士でいる時は、一人だと気が引けるような事も、公共の場で自分たちの話に興じる事も、不思議なくらい平気で出来てしまうものです。これこそ、私たちが一時的に「外部」を忘れて、「オレ達」「われわれ」を満喫している時間であります。

 節度さへ守れるのなら、それは全く問題ではないし、仲間内やその他の共同体で結束を深めるのは構わない。だけど、それが行き過ぎると、その外部には必ず「オレ達」「われわれ」から無意識的に排除せられてしまっている人間がある、ということを忘れてはなりません。(次回へ続く)