かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

軍隊学校之記(15) 競争はつらいよ

 特大の模造紙を貼り合わせた二メートルに及ぶ順位表がデカデカと掲示されると、人々が暗い廊下にひしめき合って自分の模試の順位をさがします。

 私はこれが実にキライでありましたので、出来ることならば見たくもない。校内順位なぞ模試の個人成績表に記載されているわけですから、自分のポジションは分かりきっています。少なくとも学業奨学生枠の云番以内に自分の順位があれば、それでいったん心を落ち着けられるのです。

 そこへきて、学年の生徒ほとんど全員の名が連ねられた順位表なんてものは「誰それよりも自分が上か下か」というのを確かめるためのものに過ぎず、極めてストレスフルな代物であったことは確かです。

 これはやはり軍隊学校がわれわれの「競争心」を煽らんがための手段であったのだと思います。私はそれがイヤで堪らないから、わざわざその廊下を迂回したり、それを見てきた同級がする話をついうっかり聞かないように細心の注意を払っていました。

 しかし、ふとした拍子に「○○が何位を取ったんだってよ!」なんて話を拾ってしまうと、そこから二三日はどうにも気分が悪い。元来負けず嫌いな私は、そんな話を聞くだに「競争」モードにいらない油を注がれて、どうしても平時の勉強ペースが狂ってしまうのでした。

 それが起爆剤にならなかった、と言えばウソになりましょうが、やはり「競争」というものは心底イヤなものです。人間、競争ばかりしていたら、どこまでいっても心は休まらないわけで、「競争に勝った者だけが成功する」世の中なんぞ、ちょっとしたジゴクだと私は思うのです。

 「某に先を越される」と思った時の焦燥は、非常なストレスであり、そこに「蹴落とされてなるものか」という意思を芽生えさせます。ですがこれは裏を返せば、「だったら私が某を蹴落としてのし上がるんだ!」という排除の論理が見え見えなわけで。

 そんなことにジリジリと精神のライフポイントを削られるくらいなら、心静かに抽象的な順位の数字を眺めて、新たな作戦を練るにしくはありません。他者を蹴落とすのではなくて、本当に闘うべきは自分の未熟な論理的思考に外ならないのですから。

 「競争社会」など、暴走して腐敗した資本主義がもたらした産物なのかも知れません。磨き上げた自身の能力と、特質。それに見合った仕事をして、各々が生活の質と社会の質とを向上させるのに一役買えれば、それで御の字なのじゃないか、と私は思うのです。

 あの巨大模造紙を前にしたら、手塚版「ブッタ」はきっとこんなことを言うでしょう。

 「燃えている・・・」と。