かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(26) エンジンが付いた子 後編

 「学ぶ」ことが出来る人間とは、エンジンの付いた車のようなものです。

自分が欲する知識を、必要に応じて得ようと算段することが出来れば、その人はどこまでも「学び」を続けることができるでしょうし、その過程においてまた、新たな課題を見つけて次なる「学び」へと進んでいくことでありましょう。

 「教えられる」一方の人間には、それが出来ないのです。誰かに押してもらうより外に前に進む手段がない彼らは、およそ知識を「与えられるもの」だと錯覚してしまっているのです。そんな風にして与えられた知識など、能動的に取り入れる知識に比べれば「定着の質」というものが違ってきます。

 忘れては教えられ、また忘れては・・・を繰り返し、進学塾に高額な月謝を納めて当座の目的を達成したら、あとはキレイさっぱり忘れてしまう。こんなようでは一生自分から「学ぶ」人間にはなれっこないでしょう。

 教育の現場に必要なのは、「学ぶ」ことを教え込むことなのです。魚の買い方ではなくて、魚の捕り方を教えることこそが、教育の本懐だと私は思います。

 「成績が上がればいい」「たくさん覚えてくれればいい」なんて実に見当違いな目的で「教えて」ばかりいても、生徒は一向に自ら進んで「学ぶ」ようにはなりません。

 それよりも寧ろ「なぜ勉強するのだろうか?」「勉強の質を上げるにはどうすればよいだろうか?」とか、「そもそも何をもって覚えたと言えるのだろう?」という根本を糺す問いかけこそが、生徒の「学び」を触発する上で重要なキーとなってくるのではないでしょうか。

 義務教育や高等教育は、受験や就職のためにあるものではありません。それは生涯にわたる「学び」を続けていくための下地を作るためにあるものです。

そこで「学び方」を教わり、あとは自分で好きな方向へハンドルをきって進んでいくための優秀なエンジンを整備するために、学校というものは存在しているのです。それが出来ないのならば、最早この国の教育に未来はありません。
 
 教育に金をかけられる国になること、そして「学べる」人間を育てられる国になること。それは目先の資金運用に一喜一憂するよりかは、ずっとよい投資ではありませんか。

まぁ、死ぬまで近視眼的な学べない人間には、きっとその価値なんてわからないことでしょうが。