かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(11) 半開きのドア

 三連休などをことごとく自室に籠城して過ごした翌週、久しぶりの娑婆の空気を吸って授業へ出ると、親しい友人に会っても上手く言葉が出なくて驚いたことがあります。

 一人っきりの部屋に籠もって、自分の内面に深く潜ってあれこれ物を考えたり、脳みそを振り絞って一本の論考を練ったりしていても、やはり「閉じ」過ぎにはいつか限界が訪れるのです。この点に関しては森見登美彦氏の『四畳半神話体系』(アニメ版でも可)を参照されることをオススメします。

 じゃあ、ずっと「開け」ばよいかと言うと勿論そんなことはなくて、コミュニケーションに次ぐコミュニケーションによって、あらゆる人の考え方や思いに共感しまくっても、「じゃあ、あんたはどうなんだ?」と言われて絶句してしまったらオジャンであります。

 自分が薄まってゆく感じ、とでも申しましょうか。「開く」のは良いけれど、たくさんの声の中に自分が埋没したり、拡散してしまっては、何のために「開いて」いるのか分からなくなるというものです。

 さあ、塾生諸君、もう私の言いたいことはお分かりですね。要は「半開き」が丁度良いということなのです。

 完全に「閉じる」のでもなく、常に「開く」のでもない。「閉じ」過ぎが招くのが、単なる孤独ではなくて思考の硬直化であるとすれば、「開き」過ぎが招くのは他者への過度な同調であり、思考の希薄化に外なりません。

 それはどちらも危うい思考状態であり、肉か野菜か一方しか口にしない人のように、ものを考える上での栄養バランスが非常に悪いものです。だからこそ心のドアは「半開き」に限ると私は主張したいのです。

 一人で根を詰めても「ダメだ、煮詰まった!」と思ったら誰かと話す。「うんうん、そうだよね、やっぱり私もそう・・・」というところで違和感を覚えたら、「ホントのところ、どう思ってんだよ」ってな感じで、とっくり自分とタイマンを張ってみる。

 いつでも個室になれるし、いつでも他者を招き入れられるラウンジにもなる。そのためにも「心のドア」はいつでも「半開き」にしておくにしくはないのです。

 そして何より「半開きのドア」というものは、全開のドアよりも閉ざされたドアよりも、たいへんな「ゆかしさ」を掻き立てるものであることも、余談ながら付記しておきます。