教室に来てプリントを解いている子供を見ていると、何だか羨ましくなることがあります。
一つ解いたらまた次の問題、そしてまたそれをクリアすると次のステップへ。とにかく公文のプリントをわしわし解いている間は、他のことを考えることなく目の前の問題に没頭していられる。
これはたいへんに幸せなことだと私は思うのです。
決して安くはない月謝を払ってもらい、こうして教室に通わせてもらっていること自体すでに幸せですが、彼らは取り組むべき「問題が与えられている」幸福もまた享受しているわけです。
ここで言う「問題」は、まず課題と言い換えてもいいでしょう。与えられたものをきちんとこなせば、そこに何らかのレベルアップが見込まれるのが課題というもの。
だからこそ子供達は、とにかく毎日コンスタントに、四の五の言わず公文のプリントを解けばOKなのであり、それによって読み書き計算の基礎学力が身につくのです。
オトナの私もそんな風に、何かしら与えられたメソッドをわしわしこなすことで、自然と論文のアイディアであったり、書き物のネタが降りてくりゃいいのに、とつい仕事の手を止めて夢想してみたり、してみなかったり。
つまるところ、オトナになるということは、課題が与えられる立場から、寧ろ課題を自分で探しにいかなければならない立場へ移行することなのやもしれません。
ただ、これは万人のオトナに言えることでもないようです。なぜなら「課題」なんてものは、ぶっちゃけ無くても生きていけるわけですし、時にそれは生きている上で邪魔くさく感じることだってあるでしょう。
しかしながらそこで課題を探すことを全く止めてしまってはヤバイぞ、と私の直感がざわざわするのです。挑むべき課題もなく、ただ日々を惰性で過ごして同じサイクルを繰り返す、なんていうのは実に省エネでよいかもしれませんが、そんなことをしていたら将来AIによって仕事を奪われても文句が言えません。
それぞれがそれぞれ異なる「課題」を見いだし、それに対して提出された個々のアンサーこそが、多様性と呼ぶべきものなのではないでしょうか。それが社会に一石を投じたり、はたまたひょんな拍子に還元されたりするからこそ、そこにわれわれの進むべき新たな活路が開かれるのです。
必要とされるのは「課題」を自分で探してゆけるオトナを一人でも多く輩出するための教育の充実であります。国際競争力なんて言う前に、もっともっと根っこの部分を補強しておかなくては、早晩この国は深刻なガス欠に陥ることでしょう。
と、私は本日自分に課した「課題」に筆を擱いて、教室へ出る支度をはじめることにしましょう。