かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(30) 時には風のように 後編

 自分の声を子供に届けたいのであれば、「聞かせる」のではなくて「聞いてもらえる」よう心を砕かねばなりません。そんなことは、小学校で習うことのようですけれど、あれこれ忙しい現場ではついつい疎かになってしまうこともしばしばです。

 釈迦が弟子達に「法華経」を説こうとする場面に面白いくだりがあります。はやる弟子達を前に教えを説きはじめた釈迦ですが、間もなくそれを中断して深い瞑想に入ってしまいます。しばらくして漸く話し出すことには、聞く人々の心が静まり澄みわたるのを待っていたとのこと。

 つまるところ、仏の教えも教育現場のアドバイスも、聞く方の準備が出来てからでないと、ロクな「教え」にならないで、漫然と聞き流されるのがオチなのです。

 騒々しい指導者がいる教室は、必ず騒々しいものであります。オトナが率先して声を張れば、子供もそれに負けじと張り合って、無益な応酬が繰り返され、最後はどちらも損をする。 

 子供はオトナなんかより耳の性能がよいのだし、オトナが声なんぞ張らなくたってちゃんと聞こえているわけで、それが聞こえなくなる状況を作り出すのは、いつだってワカランチンのオトナなのです。

 大事なのはオトナが静かに心を澄ませていることです。必要な注意やアドバイスは、その子の耳にだけ届けば、それでよいではありませんか。

 いつも大事なことを簡潔に話してくれるオトナが「おっ、何か言ってるぞ。」と気づけば、子供も自然と耳を澄まします。いや、寧ろそうした方がよく聞くものだから面白いものです。

 量ばかり多くて、シャワーのように浴びせかけられる言葉は、子供の耳をバカにしてしまいます。それはオトナだって同じこと。誰がそんなものを聞きたいと思うでしょうか。

 時にはささやくように、そして時には風のように、彼らの耳に必要なことをさらりと吹き込んでやるくらいが丁度よい。「指導」なんてものは、あからさまにするものではないのです。「教えてる感」を出している奴をこそ疑わしい。それが私の持論であります。