かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(4) バッハを聴きながら

今週のお題「地元自慢」

 誰も自慢してはおらぬのだけれど、いや誰も自慢しておらぬからこそ、私がそろぉっと、手を挙げて自慢せねばならぬことがある。ここは、バッハ推しの町なのだ。

 わが郷里「加美町」(旧中新田町)は、宮城県北部。仙台から北に車を走らせて、一時間ちょいのところにある。奥羽山脈から吹き下ろす西風にビシバシ扱かれて、冬期は除雪という名の筋トレに余念がない。

 演習場がある隣町は潤沢な予算でもって、歩道車道ともに住民想いな除雪がされるのに対して、ここはかつてヘタな合併をした所為で、市にもなり損ねて予算もない。だから堆く掃き寄せられた雪を家の前から避けることなしに、通学も通勤もままならない始末である。

 しかし、そんなわが町には、文化の香り高い「バッハホール」がある。その音響は無類であり、弾いてもよし、聴いてもよし。ここで聴くチェンバロや、パイプオルガンの調べはまさに格別である。かつては「田んぼの真ん中ホール」と呼ばれたこの辺りにも、今や住宅が建ち並び、何なら「バッハ通り」だってあるが、タクシーの運ちゃんにその名を伝えても「?」で返されるのがオチである。

 でも、なにゆえにバッハなのか。それはよく分からない。一説によるとバッハの地元と姉妹都市であるためらしいのだが、じゃあなにゆえ、そうした都市を姉妹都市にチョイスしたのか、どうにも定かではない。何ならハイドンホールとか、ベートーヴェンホールになっていた可能性もある。

 だけれど、私はバッハで好かったと思っている。なぜなら私はバッハが好きだから。それ以上の理由はない。

 でも時々、私の軽トラで大音量のバッハを聴きながら、田んぼ道を走っていると、何となく腑に落ちることがある。

 ここには取り立てて人を寄せるものこそないけれど、一本芯の通った循環(めぐり)がある。大量の雪は質のよい米を育て、時折氾濫する鳴瀬川の流れは肥沃な土と恵みをもたらす。

 これがわが郷土の根底に流れる「通奏低音」なのだ。夕陽を受けた稲穂が金と光り、グレン・グールドの奏でるバッハが高らかに謳う。

 何だかんだ言って、私は結局この町が好きなのである。