かたつむり学舎のぶろぐ

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教育雑記帳(38) 英語のはじめ時 後編

 そもそも、こちらの指示や学習のアドバイスすら、ちゃんと伝わっているのだか定かでない段階にある子供に、英語を習わせるなんてことは、愚かしい倒錯に過ぎないのです。

 向こうの言葉を覚えるならば、それに対応する母語という基礎がしっかりと出来上がっていなければなりません。つまり、母語の力がある程度具わってからでないと、非英語圏において英語を学習することは困難を極めるのです。

 これをあやふやにしてしまうと、言葉の軸が安定しないまま、その学習者はいずれの言語においても中途半端な能力に甘んじねばなりません。人間が言葉によって思考する存在である以上、この中途半端さは論理的にものを考える力にも、暗い影を落としてくることでありましょう。

 かつて、頑なに「英語だけやる」と言ってきかなかった親御さんにも、「それ以前に、もっとやることがあるはずだ。」ということをやんわりと伝えたものでした。停滞を続ける英語学習と平行して(いや、それを即刻取りやめてでも)国語の学習をはじめるべきことを説いて聞かせたのですが、その甲斐もなく「英語だけ」やりにきた年長さんは教室をあとにしました。

 さて、ツラい思い出話はさておいて「英語のはじめ時」とはいつなのでしょうか。ここまでお読みくださった皆さまにおかれましては、きっともうお分かりでしょう。

 英語のはじめ時は、母国語が満足に出来るようになった時なのです。自分が軸足をおく言葉によって、自分の意思を表明したり、身の回りの最低限の用を足せるようになってからで遅くはないのです。

 「ハウアーユー?」を知っていて、「ごきげんいかがですか?」を知らないのでは、全くお話しにならないのであります。

 母国語と外国語の言葉の一つひとつを対応させる能力こそが、それぞれの言葉が背負っている微妙な文化的差異を発見していく、言語学習の醍醐味を教えてくれるのです。

 「英語をやりたい? よし、ではこの国語の体験学習というところに○を付けるがよろしい。」