かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 訂正の精度 後編

 「訂正」とは「学び」のチャンスであります。 だからこそ、正解するよりも訂正することの方がよっぽど難しい。

 正解とは正直なところ、実に味気ないものなのかも知れません。クイズ番組を見ていても明らかなように、ピンポーンと正解してポイントが加算されたところで、それはあくまで「それまでの話」なのです。

 世の中にはこうした正解だけを追い求めるような論調が数多はびこっているわけですが、こうした〈正解主義者〉は「正解でないこと」に対する免疫がちゃんと具わっているのか疑わしいものです。

 「正解でないこと」に出くわした時にどうするか。大事なのは、かつて自分が「答え」だと思ったものを「訂正」し軌道修正を加える力なのです。次に正解出来るようにガンバルでは、およそ意味がありません。

 じゃあ、あなたは次にどうガンバルと言うのか、と尋ねられた時に、具体的な方策も示さずに気合いとか、集中するとか言っているようでは、甚だ考えが甘いのです。

 なぜ自分が間違ったのか、自分が何を何と勘違いしていたのか、何ならこのようなミスを再発させないためには、どんな作戦を講ずるべきなのか・・・。

 このように「訂正」とは、徹底的に自分を客観視する作業に外ならないのです。この作業を繰り返し行うことによって、かつての自分の理解と、それに軌道修正を加えた理解との相違が、はじめて明らかになるのです。

 これは案外、正解しているだけの人よりも多くの理解をもたらすものなのではないでしょうか。寧ろ「正解=理解」という等式こそ、疑ってかかるべきだと私は常々思っています。

 訂正によって、「自分はこれが、こうだと思っていたから間違えてしまったのだ、だから次はこの部分に注意を払う必要がある。」という段階に達し得た時、私たちははじめて正解に至る道筋を「学ぶ」のかも知れません。

 「正解」は時に、その甘美な響きの裏に、ほんとうの理解を置き去りにしているものです。正解に酔う前に、賢明なる塾生諸君は「訂正の精度」を磨くことを第一と心得てほしいと思います。