かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽百計「石楠花」

 私のおばさんが庭の石からワイルドに引っぺがして、そのままビニールに入れて呉れたのが、このシャクナゲである。



 「百計」とは言い条、初っ端から見事なまでの私の無策ぶりを露呈するようで、はなはだ気恥ずかしいのであるが、これはこれで「面白い」と思っているから(思えているから)OKなのである。

 鉢を小さくして、ちょっとシメテみても頑強な茎の伸びは留まるところを知らず、気がつけばこんなにアンバランスな一鉢が出来上がってしまった。

 だけれど、この「石楠花」は私の棚場において、欠くべからざるポジションを担っているのだ。展示会に登場したことはないけれど、この一鉢のおかげで、私は家居にありながら常に自分の棚場の具合を知ることが出来るのである。

 書斎の硝子戸から丁度見えるところに、この剽軽なやつを置いておく。鉢の寸法を軽々とオーバーする葉っぱは、上段が今年の新葉で、中段下段といくごとに去年、一昨年と遡る。

 柱の傷はいつぞやの、というのではないが、年々の成長というものが、この葉っぱの位置によって刻まれている。

 いつになったら花を咲かすのやら皆目分からないけれど、この葉っぱがこれまた正直なヤツで、水がないときは真っ先にその異変を報せてくるのだ。この樹の水が切れる時は、だいたい外の盆樹たちも同じような塩梅になっている。

 朝の内はバリッと上を向いて反っくり返っていた葉が、危篤のエリマキトカゲみたいに下を向き出すと、私も即刻仕事を中断してジョウロを担いで庭に出動せねばならない。

 まぁ、そんな理由から持ち主に(実用的な面において)気に入られているなんて、この樹にとっても想定外だろうが、ある意味でいつも見ている樹であり、それなりの愛着を持っている樹なのである。

 流石に棒立ちもあれだから、遅まきながら幹に曲をいれてみるのもいいかも知れない。長く付き合っていくためには、「将来的に見飽きない」姿を模索する必要があるのだ。

 どれ、ひとつ今日はいつも世話になっている彼を座敷にむかえて、これからの幹芸についてとっくり語りあってみようかしら。