『たんすを しまいます。』という答えを読んで、私は少しその様子を想像してみる。
一人ではどだい無理な話である。だって、あの大八車に乗っけてえんやこらするような『たんすをしまう』のであるからして、大勢で持ち上げないと腰をやってしまうだろうし、第一、そんなたんすをどこにしまうというのだろうか。まさか、たんすが入るたんすの引き出しにしまっちゃうのだろうか。そいつはエラいことだ「しまっちゃうおじさん」も驚くに違いない。
そんな下らないことを一人でニヤニヤしながら考えているオトナをよそに、少年はさっさと正しい助詞を選び直して、次々と正解を重ねている。
さて、最後のページにさしかかったけれど、ちょっと気が緩んだのかしらん『おねえちゃんで しゃぼんだまをします。』とのこと。
果たして、おねえちゃんは無事なのか。おねえちゃんを使ってしゃぼんだまをするという狂気じみた遊びである。口にしゃぼん液を含ませて、泡でも吹かせようという算段か、或いはおねえちゃんをしゃぼん液に漬けて大きなしゃぼん玉を拵えようというのか。そりゃどんな罰ゲームだ、寧ろ立派な拷問ではないか。
一刻も早くしゃぼん液でズルズルになったおねえちゃんを助けてやってくれ、と祈るオトナは、さっきからあまり仕事をしていない。
仕事もしないで「助詞って面白いな」なんて感動を新たにしている。だってそうだろう、たった一文字助詞を入れ替えるだけで、そこにダイナミックな主述の出会いが生まれるのだ。たといそれが間違いであろうとなかろうと、それに応じて主語が新しい動きを見せて、私の脳内を大いに愉快がらせる。
今そこにないものを自在に動かし、イメージを呼び起こす。これを「言葉」の真骨頂と言わずして何と言おうか。