腹の外で子供を待っている父親というものは、あるようでないようなわが子の実感をめぐって、ぼんやり物思いする星の下にあるらしい。
その子が如何なる星の下より来たったものか、自分が撒いた種であることは分かっていても、例のカラー写真によって顔を見せられても、やはりどこかその実感はぼんやりとした薄靄の中に、いや妻の腹の皮一枚のところで隔てられている。
それはビックリマンチョコのような・・・というのは流石に安すぎる喩えであるからこの際止めておくことにしよう。そこに確かに入っているのだけれど、開けて検めてみないことにはガッツポーズのしようもない。やはり現物を手にして、ニヤニヤ光にかざしたりなんかして、レア感をこの手で確かめて、はじめて溢れんばかりの快哉を叫びうるのであろう。
そんなことをとつおいつ考えていると、検診を終えて来た妻が「分かったよ」うなことを言う。だいたい君だって自分の腹の中を覗かれないだろうに、どうしてそんな「分かったよ」うなことを申すのか、なんて夫の耄碌した弁を完全にスルーしてに、「どっちだと思う?」と妻がたたみかける。
右か左かではないらしい。「おれはどちらかと言うと左だ」とか「おれたちの家はあっちだ」とか、自分でも馬鹿馬鹿しい言の葉を吐き散らしつつ、何とか自分の頭が沈静化する時間稼ぎをしているけれど、妻の顔は一刻も早く「どちらか」を発表したくて堪らない模様である。
さはれ、ここで焦ってはいけない。これは二分の一の確率で当たって、二分の一の確率でハズレる二択問題であるわけだが、ここで迂闊にも私がどちらか一方を回答して、それを見事にはずした場合、妻は何と思うだろうか。
この人は「そっち」が欲しかったのだ、なんて思われた日には妻を落胆させてしまうことにもなりかねないし、腹の子にも何だか申し訳が立たない。それはきっと、回り回って胎教にも悪い影響を及ぼすに違いない。
ハンドルを握る手が、心なしかヘンな汗を掻き始めていた。